昭和の記憶

天の邪鬼

子どものころからずっと、赤やピンクが嫌いだった。
好きな色を選ぶように言われるときは、いつもだいたい寒色系か、
たまに黄色を選んでいた。
それが自分に似合いの色だと、心の底から思っていた。

時が過ぎて今、気付けば赤は嫌いじゃない。
あんなに毛嫌いしていたピンクも、けっこう好きになっている。
あれあれ? 私っていつからそうだったのかしら。

色についての記憶をたどると、まず思い出すのはランドセルの赤だ。
入学を数か月後に控えたある日、父方の祖父母から新品のランドセルが送られてきた。
そのことはとても嬉しかった。
祖父母のことも大好きだったし、小学校に上がることはとても楽しみにしていた。
だが、その私の心を曇らせたのは、ランドセルが赤いということ、ただその一点。

「ねぇ、なんで赤なの?」と口を尖らせる私に、
「だって、女の子は赤でしょ」と言う母。
そりゃあね、いくら小さくてもそれくらいは分かる。
周りを見ても、女の子はみんな赤いランドセルを背負っている。
当時、ランドセルの色といったら赤と黒に決まっていた。
知ってるけど… でも、私、ほかの色がよかった…
赤じゃないほかの色なら、男の子が持つ黒でもよかったのに。
子ども心にもそれ以上言ってはいけないと思い、不満の言葉を飲み込む。
地元の公立小学校ではなく、どこぞの附属小学校に通う制服姿の女の子が、学校指定の黒いランドセルを背負っているのを見たときには、羨ましさのあまりガン見してしまった私。
見られた子はさぞ気持ちの悪い思いをしたことであろう。

なぜそこまで、私は赤が嫌だったのか。
そのことについて、今まで考えたことはなかった。
ただ、私という人間は赤が嫌いなのだと思っていた。
さらにはそのついでのように、女の子の多くが好むピンクという甘ったるい色も、私には受け付けられないのだと思っていた。
私は、赤とかピンクとか、そういういかにも女の子女の子したものとは無縁の人間なのだと、心の奥底で密かにうそぶいていたのだった。

しかし、である。
赤やピンクをそんなにも自分から遠ざけていたのは、実は色そのものが嫌いだったわけではないということに、ごく最近気が付いた。
私は、赤やピンクが嫌いなのではなく、女の子はこの色と決めつけられることが嫌だったのだ。

思えばランドセルだけではなかった。
洋服や他の持ち物も、周りの大人が選んでくれるものはいつも赤で、そこに幼い子どもが自分の好みを主張する余地はなかった。
それも仕方がないことだったと今は思う。
そういう時代だったし、今のようにいろいろな色を選べるほど多彩な商品もなかった。
それにもし、そのときの私がどうしても黒のランドセルにすると言って譲らなかったとしても、弁当箱の二の舞になるだけだったろう。

赤が嫌いだったわけじゃなかったんだということが分かって、
いま私は、からまっていたものがほどけたような、引っかかっていたものがすっと腑に落ちたような、爽快な気分である。
赤やピンクを拒絶する一方で、それに相反する気持ちがいつも心のどこかにあり、けれども自らその気持ちを強く打ち消す といった複雑な心の動きが、今から思うと私の中にはあったように思う。
自分自身のことなのに、それが分かるまでに40年もかかるなんて
本当におかしな話だけれども。

私が今の時代の子どもだったなら と想像する。
ずらりと並んだ色とりどりのランドセルを前に、さぁ好きな色を選びなさいと言われたら。
以前の私なら、水色のランドセルと答えただろう。
でも、自分の本当の気持ちを知った今は少し違う。
たくさんの色の中から選べるのだとしたら、敢えて私は赤を選ぶのかもしれないと思うのである。

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作文の思い出 (3)

私が中学3年のときの担任は、美術の教師だった。
太い黒ぶちのメガネに禿げ上がった額、後頭部にはクセ毛が無造作にはねており、たばこ臭い息を吐きながらヤニのついた歯をむき出して豪快に笑う。
いかにも、芸術家然とした風貌の、面白いオッサンだった。
痩せていたので実年齢よりも老けて見えていたのだろう。
教員の定年が60歳であるから、現役の当時はまだ50代だったわけだ。
今の自分がその年代に近づいていると思うと、ちょっと複雑な心境になる。

私たちは先生を、名字の一文字を取って「ハマさん」と呼んでいた。
ハマさんは自分を「ボク」と呼び、生徒を「キミ」と呼んだ。
そんなキザな印象の言葉も、ハマさんの口から出るとどことなくユーモラスに響く。
ハマさんの喋る口調は陽気で独特の味があった。
怒っていてもどこかおどけているような、また強烈な自分の世界を持っていながらもどんな個性も受け入れてくれるような、
ハマさんは、とらえどころのない、けれどもとても懐の深い先生であった。

美術の時間に、額縁の制作をしたときのこと。
それは、木製のパーツを四角に組み立てたものの表面に、自分でデザインを考えて彫刻を施し、ニスを塗って仕上げるというものだった。
私が彫刻刀で自分のデザインをほっていると、そばを通りかかったハマさんが「おぉ!」とわざとらしいほどの声を上げて立ち止まり、机の上から制作途中の私の作品を手に取ってみんなに見えるように高く掲げて言う。
「ちょっと見て!これはすごい。これはね、ちょっとしか彫らなくてもたくさん彫ったように見える。そういうデザインなんです。はっははは…」
せ… 先生~coldsweats01
それ、全然ほめてないですってば!sweat01
ていうか、図星ですsweat01sweat01
やっぱり、手を抜くと分かっちゃうのね…shock
それでも、取りかかってしまったからには、最後までそのデザインで貫いた私である。
そのときの美術の成績、どうだったんだっけ?記憶にはございません~^^;
と、まぁそんな感じで、どこまで本気でどこから冗談なのか、よく分からないハマさんなのだ。

前置きが長くなったが、ここからが作文の話である。
ハマさん学級では、班日記というのがあった。
クラスの席順で分けた班ごとにノートが渡され、班員が交代で日記を書く。
日記といっても内容はさまざまで、要するにかなり適当だ。
授業の提出物とは違うので、それこそ何でもありの、ゆるいものだった。
だから、ノートが自分のところに回ってきてもたいして心の負担にはならなかったし、あったことや思ったことを気軽に書いたり、書くことがなくても日ごろ感じていたことなどを楽しんで書いていた。

そして、ハマさんは各班の日記から毎週3つか4つの記事をピックアップし、それを学級通信に掲載した。
ハマさんがノートから記事をそのまま書き写した手書きの学級通信が発行された日は、帰りの学活の時間にみんなでそれを読む。
読む というか、ハマさんがそれを読み上げるのを聞く。
B4サイズの藁半紙に細かい字でびっしりと書かれたものを、コメントを交えつつすべて読むのだから、けっこう時間もかかる。
それでも、帰りが遅くなるなどと文句をいう生徒は一人もいなかった。
クラスの中の誰かの日常をつづった文章を読むというのも、その人の知らなかった一面が見えたりして、とても新鮮だった。

ハマさんの選ぶ文章は、すべてが名文というわけでもなかった。
中には、「今日は○時○分に起きて顔を洗い、○時○分に朝ごはんを食べた。○時○分に家を出て学校に行き、授業を受け、お昼に給食を食べた」というような、一日のタイムスケジュールを羅列しただけの男子の記事もあったりした。
しかし、それをハマさんが読むとミラクルが起こるのである。
独特のハマさん節に乗ると、ごはんを食べ学校に行ってお風呂に入って寝ただけの退屈な一日が、なんともいえないコミカルで愉快な色彩を帯びてくる。
夕飯を食べたというところに話が進むころには、爆笑の渦が巻き起こるのであった。
終わりまで読んでハマさんはコメントする。
「いや、素晴らしい!ボクぁ~、好きだなぁ」
クラス全員の拍手喝采を浴びて、それを書いた本人が一番びっくりしていたことだろう。

ハマさんの班日記は学級経営の一環で、作文の上達を狙ったものではなかったけれど、本来、作文指導とはこんなふうでなければならないのではないだろうか。
作文は書いて終わりではなく、必ず読み手がいる。
書き手は自分の体験や思いを伝えるために文章にするのだし、それがどんなふうに読み手に伝わるのかを見届ける必要がある。
そして、読み手はそれぞれに自由な解釈をするものだ。
書き手本人さえ気づいていないその文章の魅力を読み手側が見つけるとしたら、それはとても高度な学習なのだと思う。

あのころは、ハマさんをちょっと変わったおかしな先生だと思っていたが、今ごろになってその偉大さを知るのである。

 

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作文の思い出 (1)

変われば変わるもので、今でこそ好きでこうしてブログに文章を綴っている私であるが、子どものころは作文が大の苦手であった。
作文の授業や宿題が、ほんとに死ぬほどいやだった。
何がそんなにいやかって、書くことがないことだ。
小学生に課せられる作文と言ったら、たいてい原稿用紙2、3枚。
今にして思えば大した量ではない。
でも当時の私には、それがとてつもない重荷だった。
原稿用紙が配られ、級友たちが一斉に鉛筆を走らせるかすかな音を聞きながら、私はいつも途方に暮れ、壁にかけられた時計の針を見つめていた。

運動会の思い出や将来の夢について、あるいは本やお芝居の感想といったテーマを与えられて文章をサッと書きだせる子どもは、日ごろから豊かな感受性を育んできたのだろう。
打てば響くような瑞々しい心の動きが言葉を紡ぎ出す。
しかし、私のようにぼんやりした子どもは、自由に思うことを書けと言われても、いったい何を?と思うのだし、
心に残ったことをと言われても、はて?なんだったかな?となるのである。
書きたい、伝えたいと思うことが心になかったから書けなかったんだなぁ と今はそれが分かる。

しかし、それが課題である以上、なにか形にして提出しなければならない。
私が苦しみながらひねり出して書いたものは、自分の感想や考えというよりも、その場で求められる答えだった。
要するに、きれいごとを並べたおりこうさんの文章。
自分の本音がどこにあるかも分からないのに、それでも尤もらしい建て前を、要求された字数だけ書き連ねていただけ。
そんな自分を振り返るにつけ、作文指導はその前に心が育っていることが前提条件なのだと思う。
文章を書くということは、内面にあるものに形を与える、ひとつの表現活動にほかならないのであるから。
まぁ、そうはいっても教室での一斉指導の中では、一人一人の心の中をのぞくことまではできないので、まずは作文をやらせてみるしかない。
個人差のある子どもたちに、他者に伝わる文章力をつけさせるには継続したトレーニングが必要なのだろうし、また作文をきっかけに物事を深く考えるという側面もあるだろう。
現実はいろんな制約を受けながら、理想を目指すのだ。

あるとき、小学校中学年のころだったか、
椋鳩十のお話を読んでの感想文を書くという課題が出された。
タイトルは何だったか、確かツキノワグマのお話である。
例によってどうにかこうにか原稿用紙のマスを埋めて提出した私のそのときの作文が、次の国語の時間に取り上げられ、みんなの前で添削指導を受けたことがあった。
本当にはそれほど強く思っていないことを少々大げさに脚色してまとめ上げた稚拙な文章。
それを綴った私の文字がOHPでスクリーンに大きく映し出され、先生がペンを入れていくのがなんとも照れくさいやら恥ずかしいやら。
自分が何を書いて何を直されたかほとんど覚えていないが、概ね褒めてもらえたのだと思う。
ただ、ラストの一文。
これだけはとてもよく覚えているのだが、作文の一番おわりに
「この話はとてもいいお話だと思いました。」と私は書いた。
字数が足りなかったので、字数を稼ぐために、あまり意味のないその一文を付け加えたのだった。
それを先生は、いい話だと思ったからこそ感想文を書くのだから、この一文はなくていいと、そう評された。
それを聞いてモヤっとした子どもの私。
べつにいいお話だと思ったからこの作文を書いたわけじゃない。
書けと言われたから書いたまで。
先生が原稿用紙2枚は最後まで必ず埋めろって言ったんじゃないの!
なんて矛盾したことを言うんだろう。

いえ、特に、私はその先生を嫌っていたんじゃないし、自分で作文に「いいお話だ」と書いておきながらそう言うのもナンだけどcoldsweats01
先生のおっしゃっていることだって、まぁ分からないではなかったが、でも私は私で課題に付された条件をすべて満たそうとしたわけで。
つまりは見解の相違。
それに、授業で書く作文には自由がないということをそのときの私は漠然と感じ取ったのだ。
だって、この物語、ええ話やろ?感動したやろ?これならいい感想文が書けるやろ?って無言のうちにも子どもにプレッシャーかけているような状況だもの。っていうかなんで関西弁?(笑)
そりゃあね、椋鳩十さんの動物もののお話は、どれも愛情にあふれた泣かせる話ばかりだけれども、それを読んだらすべての人が涙して人間としての生き方を己に問うのでなければならないと決めつけられる筋合いはない。
もしも、動物というものは本能に従って生きているに過ぎず、それを作者が勝手に美化して感動的な物語に仕立て上げ、自分に都合が良いように動物をダシに使っている とでも書く辛口の小学生がいたならば、いったいどういう扱いを受けたのだろう。

かつてのおりこうさんだった小学生は、アラフィフになった今、そんなことを想うのである。

 

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テレビの思い出

私という人間は根っからものぐさにできているのか、
テレビのチャンネルを自分で合わせるということをあまりしない。
かと言って、テレビを見ないというわけでもなく、
たいていは家族の誰かが見始めた番組を一緒になって見ているのであって、それでほぼ満足している。
夫や子どもが自分の見たい番組をそれぞれ事前にチェックして、
場合によっちゃ録画予約などしているのを見ると、
みんなマメなのねぇ と感心するほどである。
どっちかっていうと、それが普通なんだろうか。
ま、なんにせよ、周囲のマメな人間のおかげで、
このものぐさ花子もそれなりに、テレビの一般視聴者として、充実した日々を送らせてもらっている。

思えば私のこの習性は、物心ついた頃から同じだった。
子どものころ、私の記憶では、四つ年上の兄がチャンネルの管理をしていた。
兄が幼稚園や小学校に行っている間はどうしていたんだろう?
当時大好きだったロンパールームを一人で見て、
一緒にでんぐり返しをしたり、コップに牛乳を入れてもらって飲んだり、「鏡よ鏡よ鏡さん」とみどり先生が魔法の手鏡を覗き込むコーナーではいつ自分の名前が呼ばれるかとドキドキしていたことなどはうっすら覚えているけれど、
兄がいるときはいつも、私はテレビの前に座ってさえいれば
いつでも大好きな子ども番組を逃すことなく見られたのである。

まだテレビが一家に一台という時代、兄が見せてくれる番組は、『ひみつのアッコちゃん』や『サリーちゃん』などの女の子向けのものも網羅されていて、そこには幼い妹への兄としての配慮があったのかどうなのか、単に自分も見ていただけなのかもしれないが、
私の方は、兄と一緒に見る番組はどれも本当に面白かった。
『ゲゲゲの鬼太郎』に『巨人の星』とか、『チキチキマシン猛レース』や『ぴゅんぴゅん丸』、『いなかっぺ大将』、『ハクション大魔王』、『アンデルセン物語』、『ムーミン』、『オバケのQ太郎』、『天才バカボン』、『ふしぎなメルモ』、『デビルマン』、『ど根性ガエル』、『マジンガーZ』…
数え上げればきりがない。
大好きだったケンちゃんシリーズも、就学を控えた時期に見た『カリキュラマシーン』も、今となっては本当に思い出深い。
しかし、私の幼少期の思い出の中で最も中心に来るものは、
なんといっても、ウルトラマンと仮面ライダーだったのだ。

私が4歳になり、幼稚園に通うようになったある日、
園に持って行くためのお弁当箱を買いに行った。
当時、子どものお弁当箱といえば、シンプルな小判型のアルミ製。
そのフタの表面には子どもの好みそうな絵がついているのは今と同じだ。
家族で買い物に行ったそのとき、私が見つけてしまったのは、
仮面ライダーのお弁当箱!
おそらくその売り場には、女の子向けキャラクターのついたものもあったに違いないのだが、
大好きなヒーローに心を鷲掴みにされた4歳のオトメの目には
もうほかのものなど映らない。
絶対、これにする!と言って譲らない私に、父も母も半ばあきれ、
じゃあ、それにしましょう と、私の願いを叶えてくれたのだった。

そして、いよいよ、私が仮面ライダーの付いたお弁当を携え、
登園する日がやってきた。
昼になり、おともだちもみんなそれぞれに家から持ってきたお弁当を広げる。
私だって、どうよ!
なんたって、仮面ライダーなんだからねヽ(^o^)丿
だれにともなく、自慢げにお弁当箱を見せつける。
すると、周囲から思ってもみない反応が返ってきた。
「えー、こいつ、おんなのくせに仮面ライダーだ!」と言う男子。
この一言で、幼い私は天から地へと落とされた。

もうこんなお弁当箱、持って行かない!
そう言って、家に帰るなり泣く私。
子どもだったとはいえ、我ながら勝手なものである。
そのとき両親は、
どうしてもこれにするって自分が言ったんでしょ!
と、わがまま娘を責めたりはしなかった。
そして、こういうときにこそ、力を発揮するのが父だった。
よし、パパに任せろ!とその弁当箱を預かり、
見事生まれ変わらせてくれたのだ。

その工程についての記憶はあやふやなのだが、
まず父は、紙やすりかなんかを使い、仮面ライダーの絵を消した。
絵が消えてまっさらになったフタに、
雑誌からこれも当時私が好きだったアニメのみなしごハッチの絵を切り抜いて貼り、さらにそのイラストの全面を覆うように透明な接着剤でコーティングを施した。
そのまま完全に乾かせば耐水性もあり、洗ってもイラストが剥がれてくることはなかった。
仮面ライダーの絵は短命に終わったが、
このハッチのお弁当箱を私はその後長いこと大切に使うことになったのだった。

花のみなしごハッチは世界中でただ一つだよ!
そう言われてご満悦だった無邪気な自分を思い出す。
あのハッチのお弁当箱、使わなくなってからどうしたんだっけ?と、遠い昔に思いを馳せているとき、ふと気付いた。
あれって、まさか今で言うデコパージュなんじゃ?
私がよくお邪魔するブログで、
お教室で生徒さんを教えていらっしゃるデコパージュの先生がいつも素敵な作品を紹介されている。タッタさん、あなたのことですよ~💛
その作品ときたら、どれもキラキラして私の目には眩しいようなお洒落なものばかりで、いつも私は目の保養をさせてもらっているのだ。
それと同じ手法を、40年以上も前に父がやっていたなんて!
いや~、ほんとにびっくりぽんだ。
まぁ、あのみなしごハッチはうんと地味ではあったけれども、すごいぞ、わが父!(笑)

そんなこんなで、テレビ番組をめぐる私の回想は、意外な方向に行き着いた。
父はデコパージュを知っているんだろうか。
今度、じかに訊いて確かめてみたい。

*追記*
 タッタさんのブログ「デコエッグ」へのリンクはこちらをクリック!

 

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年賀状の思い出

今でこそ珍しくなくなった写真入りの年賀状。
今年も親戚や友人たちから、家族の笑顔満載の、幸せ色のハガキが届いた。
今はちょっとPCを使えば、簡単にオリジナルの年賀状が作れるし、写真を取り込むのだって、カラー印刷だって、楽々だ。
特別なスキルなど持ち合わせていない私にだってやれるのだから、ほんと便利になったものだ。
でも、昔はそうはいかなかったわねぇ と子ども時代が懐かしく思い出される。

私の幼少期であるから、昭和40年代から50年代ごろの話である。
当時、よそからいただく年賀状には写真入りなど皆無であった。
そんな時代に、なぜか我が家の年賀状は、家族写真だったのだ。
その写真は、父が撮影し現像し焼き付けた、いわゆる白黒の銀塩写真で、文字通り一枚一枚手作りの年賀状だったと言える。
思えば、年賀状作りは我が家にとって年末恒例の一大行事となっていた。

その晩は、早めに夕食を済ませると、みんなよそ行きの服に着替えて身支度。
壁には兄や私の書き初めが張られ、それを背景に写真撮影である。
三脚に取り付けたカメラと私たちが並ぶ位置を父が忙しく何度も行ったり来たりして撮影が終わると、すぐにフィルムの現像が始まる。
「いいか~?電気消すぞ!」という父の声に、急いで元の服に着替える私たち。
手狭なマンション住まいゆえ、家中の電気をすべて消して、視界は真っ暗に。
ダイニングのテーブルの上には写真の引き伸ばし機が設置されていて、現像後は直ちに焼き付けが行われる。
暗闇の中、つんとすっぱい現像液の匂いが漂う。
家がにわか暗室に早変わりするのだから、これが小さな子どもにとって、わくわくせずにいられるだろうか!
引き伸ばし機を通すと、フィルムに撮影した画像がハガキサイズに引き伸ばされて台の上に映る。
そこにセットされた印画紙の露光がすんだものをバットの中の現像液に浸すと、白い紙の上にゆっくりと画像が浮き出てくるのが、魔法のように思えてくる。
どんなにすばらしい写真ができているかと期待して見てみれば、
10枚以上撮ったのに、誰かが目をつぶっていたり、変な顔をしていたり、たった4人の家族がなかなか一つにまとまらない。
なんでいいのがひとつもないの?と毎年ここで思うけれど、
その中から一枚を選ばなければ仕方がない。
毎年何かを妥協して、ようやく使う写真を決めると、
あとは必要枚数の焼き付けだ。
部屋中に新聞紙を広げ、焼いた写真を重ならないように並べて乾かしていく。
子どもだった私が、暗闇につられてうとうとし始めるころまで、作業は続くのだった。

こうして作られた写真年賀状は、親戚やごく親しい人たちに届けられるのだが、少し大きくなってくると、以前は感じたわくわく感よりも、よその家とは異質な写真の年賀状を疎ましく思う気持ちが強くなった。
第一、こっぱずかしいじゃないか。
めったに会ったことのない親戚の人に会ったときも、
こちらが名乗るより先に
「花ちゃんね!いつも年賀状で見ているから知ってるわ」
などと言われることも多かった。
当時は珍しい写真の年賀状だったので、もらった人も強く記憶に残っていたのだろう。
ま、これはこれでむしろ好都合な場合もあるのだが、
それでも、こちらが知らない人に、自分の情報だけ伝わっているというのも、なんだかフェアじゃないような気がしていた私である。
そんなことも影響して(かどうかは定かでないが)、
私が中学生になったころまで続いたこの年賀状も、ついに作成されることはなくなったのだった。
写真の年賀状をやめた父の思いについて、私もこの年になって初めて、あれこれと想像を巡らしている。

その後、写真の年賀状を出す人が世間で増えて来ると、
うちって時代の先を行ってたってことじゃない?
なんて会話が実家では交わされる。
みんながやり始めるころにはやめちゃうなんて、
ほんと、時代に逆行している。
でもそれが、父らしいと言えば実に父らしいとも思えてくるのである。

 

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だいこんの季節

大根のおいしい季節になってきた。
おでんに風呂吹き、ぶり大根。
冬の食卓には大根が似合う。
先日もコロコロ角切りにした豚肉と大根で煮込み料理をしたところ、大根がうまいと夫から高評価を得た。
「昔は大根がうまいなんて思ったことなかったんだけどなぁ」という夫の言葉に、
味覚って変わるものね と相槌をうちながら、
私の頭の中では古い記憶を探してぱらぱらとページがめくられていた。
そのときの夫と同じ言葉を私は過去にも聞いたことがある。

見えてきたのは小学生のころの私。
家族で食卓を囲んでいる。
テーブルの中央に、数種の根菜の炊き合わせを盛った皿。
その中からひょいと箸でつまみあげた大根の一切れをしげしげと見つめ、父が呟く。
「昔は大根の煮たのなんか、ちっともうまいと思わなかったんだが…」
そして、それをぱくっと食べてから、
「うまいもんだな」とあらたまって言う。
え、そう?ちっともおいしくないよ と当時の私は思ったのだった。
比較的食べ物の好き嫌いなく育った私であったが、
大根という野菜は正直なところあまり好きではなかった。
生のままサラダや漬物にしたのはわりと好んで食べたが、
煮物にした大根を食べたときに口の中から鼻に抜ける独特の香りと、下茹でしても微妙に残るえぐみが苦手だった。

しかし変われば変わるもので、あの頃の父の年代になった私は、
大根の煮たのを心の底から美味と思う。
大根の味が分かるには、経験を積んで成熟した味覚が必要なのかもしれない。
やっと私も大人の仲間入りというわけだ。
うふふ~♪

いい気分でふと見やれば、私の正面に座っている義母。
取り分けてあった分を食べてしまい、お代わり用の大皿から
大根ばかりを選んで4つ5つ、自分の皿に取っている。
相変わらず自分の食べたいものだけを遠慮なく取る義母のやり方に、
ふつう大人はしないのよ、そういうの!
と言ってやりたくなるのを抑え、見なかったことにしようと思うが、
見た目にも明らかなほどお肉率の高くなった大皿の中身に、思わずため息がもれてしまう。
ずっと前に、白菜漬けを盛った皿から見事に葉っぱの部分だけを持って行かれ、芯ばっかり残ったのを見たときは驚きを通り越して笑ってしまったが、
その経験はその後の白菜漬けの切り方や盛り付け方に反映された。
小さめにきざんで全体を混ぜておけば偏りがなくなる。
でも、大根の場合は避けられないわねぇ…think
みんなで気持ちよく食事をするためには、やはりマナーは大切なものなのだ。
これで子どもたちがお肉を競って食べてくれたら全体としてのバランスはいいのだけれど、うちの子たち、あまりお肉に執着はない。
もちろん大根にも全く執着しない。
とりあえず自分の皿に入れられた分を消費すればノルマは達成したと思っているらしい。
あー、なんか、我が家の食卓って盛り上がらないわ~sad

ま、それはともかくとして。
義母の行動は正直で、私の煮た大根をおいしいと思ってくれている。
そのことだけにスポットを当て、まぁよかったわ と思おう。
次はもっと大根をたくさん入れて作ればいい。

 

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夜空を見上げて ~ひとりごと~

「あ、オリオン座!」
習いごとの帰りに、空を見上げて小4・次男が指をさす。
「冬の大三角ってどれ?」
時刻は午後7時前。
遅い時間でもないが、すっかり夜の空である。
手に持っていたスマホでスマートステラという星図表示アプリを起動し、しばし親子で星空観察。
キンと冷えた空気も心地よい。
束の間ではあるが、ゆったり気持ちをくつろげる時間であった。

星空を見上げていると、ふと幼い日の記憶がよみがえる。
父の運転する車に乗った私たち。
助手席には母、後部座席に兄と私。
夜のドライブでは、リアガラス越しに空を見るのがお気に入りだった。
今のようにシートベルトが義務付けられていなかったので、二人とも靴を脱いで後ろ向きに座り、座席の背もたれにつかまって窓から空をのぞく。
そのとき私は大発見をしたのだった。
車がどれほど走っても、お月さまがついて来る!
曲がり角を曲がっても、それでもやっぱりついて来る!!
狭い車内で子ども二人がキャーキャー騒いで、それはそれはうるさかったに違いないのに、父も母も叱ることはしなかった。
40年かそれ以上も経った今でも鮮明に覚えている。
懐かしい。
思えばあの頃は、なんの恐れも不安もなかった。

悲しみは月に似ている。
心が傷を負うと、いくら振り払おうとしてもその感情は付きまとう。
自分自身が忘れているつもりでも、悲しみは一定の距離を保ちながら追いかけてきて……
振り返ると、そこにいる。
いつか月の呪縛から逃れられる日は来るのだろうか。

“悲しみと苦しみは、やがて、思いやりの花を咲かせる”とは、ヘレン・ケラーの言葉だ。
そう、この世に無駄なことなどない。
どんな経験からも、人は学ぶことができる。
今はそれを信じたい。

 

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四人組のわんぱく体験

被害が懸念された台風8号も無事に去り、また穏やかな日常が戻ってきた。
同時に、日本の夏特有のなんとも不快な蒸し暑さに見舞われ、寝苦しい夜が続いている。
不安定な天候に雲の変化を気にしながら、梅雨明けが待たれる日曜日。
ふと、夏用の涼感寝具の購入を思い付き、ネットで検索を始めた。
寝具といっても、家族分がお手軽価格でそろえられるのは、シーツやまくらカバーである。
時期として少し出遅れたようで、商品説明やレビューを参考に価格と品質を見比べてよさそうと思われる商品はかなりの確率で品切れ状態になっている。
うーん、どうしよう・・・

PCの画面とにらめっこしているところへ次男が顔を出す。
「おかあさん、お昼食べたら田んぼ行っていい?
ていうか、行かせてください!!」と平身低頭。
近所の農家さんの田んぼで、ザリガニやオタマジャクシを取らせてもらうというのだ。
その話は、すでに「ダメ」と言い渡してあった。
なぜなら、つい2日前にも行っているからだ。
人様の丹精込めて作っている田んぼに、子どもがしょっちゅうお邪魔させていただくのは親として心苦しい。
子ども同士が夢中になってザリガニを探しているうちに、田んぼを踏み荒すようなことがないとも限らない。
次男にも納得させて、友達に行かないことを伝えたはずだった。
「ぼくは行かないって言ったけど、みんなは行くみたいだった。
みんな、あれから行ったのかなあ・・・」と、つい1~2時間前までしょんぼりしていた次男。

ザリガニならおととい捕ったのがまだいるじゃない!
と言いかけたとき、次男の後ろからのぞく顔、3つ。
「農家のおじさんには話をつけたよ!happy01
「いいって言われたよ!happy01
「夏休みの自由研究にするんだぁhappy02
などと口々に言って、次男を援護。
近所の仲良し四人組。
休みの日までつるんでいるのか!(笑)

純粋な八つの瞳に見つめられては、こちらに勝ち目はない。
絶対に迷惑はかけない、4時までに帰ってくる という約束をして、GOサインを出した。
あたふたと各自の家に帰り、昼食をとってからまた集合!
元気に出かけて行った四人組である。
ところが、出かけて数分後、急に雨が降り出した。
天気が変わりやすいから、雨が降ったら帰って来なさいと言うだけは言っておいたけれど…
帰ってくる気配は全くなしsign03
どうしたかしら、あの四人。
田んぼには着いたのかしら?
田んぼじゃ雨宿りするところもないわねぇsweat02
などと心配したものの、すぐに雨は止んだので、こちらも心配を取り下げた。
お天気はその後も不安定なまま、同じような通り雨がそのあと2回ほど降った。
まぁ、冬でなし、雨に濡れるくらい平気よね。
帰ってきたら、すぐお風呂に入らせてね!と夫に言い残し、私も過保護に心配することを止めて買い物に出てしまった。

都心とは違い、この辺りにはまだ自然が残っている。
この土地に来て私が最初に感じたのは、空が広いということだった。
少し行けば、田んぼや畑もある。
私が幼少期を過ごした土地は、今でこそ高層ビルやマンションが立ち並ぶ街であるが、昭和の当時はやはりそんな感じだった。
私自身はザリガニ捕りはしなかったけれど、兄はよく友達と捕りに行っていたなぁ・・・confident
それで、だれそれが田んぼに落ちたとか、くつをなくしたとか、大騒ぎになっていたっけsmile
この日の四人組は、私の懐かしい昭和の記憶に彩られて、逞しいわんぱくキッズそのものだった。
ま、ゲームばっかりしているより、少々泥臭くても男の子はそのくらい元気なほうがいいshine

買い物を終えて帰宅したのは、4時半過ぎだった。
次男と約束した帰宅時間はとっくに過ぎている。
もうお風呂に入ったかしら?
服がドロドロだったらどうしよう~sweat01
荷物を置いて、次男の姿を探す。
が!
まだ帰って来ていない。
このあと、習いごとの予定があるのにー‼
せっかくのいい気分が一気に急降下。
やっぱりこのオチか・・・

元気もわんぱくもいいけれど、時間厳守でお願いしますgawk

 

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おばあちゃんの家

先日、母方の祖父母の家にお別れに行ってきました。
祖父も祖母も他界し、だれも住まなくなった家が近々取り壊されることになったのです。
老朽化した家屋でも、母にとっては自分の実家。
特別な思いがあるはずです。
その母から、連絡を受けたのでした。
母にとって一番の気がかりは、仏壇のことでした。
かつて祖父が自分で設計したというその家には、造り付けの仏壇がありました。
祖父母は昔の人でしたので、生前はその仏壇をとても大事にしてきました。
それを見て育った母にも、そして孫である私にも、そうした姿勢は自然と受け継がれています。
「不動産屋が言うにはね、仏壇といっても価値なんてないんだから、ただのゴミだって、そう言うのよ。建物と一緒に取り壊して潰すんだって!そんなわけにいかないじゃない!?」
という、母の気持ちはよくわかります。
私自身のことをいえばとくべつ信心深い人間というわけではないですが、それでも祖父や祖母がいつも仏壇を拝んでいた姿を懐かしく思い出しますと、その仏壇をゴミとして処理する気には毛頭なれません。
その場所で手を合わせていた祖父母の思いまでが軽んじられたような憤りを感じます。
そんなわけで、私たちは最後に家族で祖父母の家を訪れ、仏壇の閉眼供養を行うことにしたのです。

玄関のカギを開けて、中に一歩入ったとき、昔と変わらない匂いがしました。
「おばあちゃんの家の匂いがする!」と言った私の言葉に激しく同意する母。
なんでしょうね。家の匂いって。
なんの匂いなのかわかりませんが、とにかく、この家の匂いです。
馴染みのある、なんだかほっとする匂いです。

ほどなくして、兄一家もやってきて、この日の顔がそろいました。
子どもたちがはしゃいで騒ぐのを静かにさせ、セレモニーの開始です。
略式ではありますが、仏壇にお花を飾ってお供え物をし、お坊さんをお願いしてお経をあげてもらいました。
目を閉じて読経の声を聴いている間、私はなんともいえない気持ちにとらわれました。
この「おばあちゃんの家」は、私にとっても様々な思い出のある家です。
おじいちゃんが建てたのに、それでも「おばあちゃんの家」だったよねぇ… と一人ツッコミを入れながら、祖母の強烈なキャラを思い出します。
人のいい、照れ屋で真面目な祖父は完全に尻に敷かれてました(笑)
わがままで勝手なところもあったけど、私にはいいおばあちゃんだったなぁ…
子どものころ、よく、週末にお泊りをさせてもらったっけ。
自分の家ではしないお手伝いも、おばあちゃんの家では率先してやった私。
お皿洗いや、お部屋の掃除、ガラス拭き。
「きれいになった~」と言ってもらうと嬉しくて、自分が一人前の役に立つ人間のような気がしたりして。
そしてなぜか思い出すのは、テレビドラマ『熱中時代・刑事編』!(笑)
お泊りの夜に見たっけなぁ。懐かしい( *´艸`)
泊まった翌朝は、いつも早起きして散歩に行きました。
おじいちゃんとおばあちゃんと私と犬。三人と一匹で。
犬と遊ぶのも、おばあちゃんの家での大きな楽しみだった私…

このときになって、今まで考えていた以上に、ここでの思い出がたくさんあることに気づきました。
お正月にいとこたちが集まって遊んだこと。
大人になった今は、それぞれ忙しく、なかなか会えなくなりました。
長男が生まれて、久しぶりにこの家を訪れたときのこと。
祖父が亡くなってから、2年前に祖母が亡くなるまでのこと。
その他、いろいろ、もろもろ…。
見回せば、この家の周辺もすっかりきれいに整備され、隣近所のお宅も建て直して新しくなっています。
この家だけが古ぼけて取り残されてしまった感じで、ちょっぴり切ない気持ちになります。

子どもだった私が大人になり、赤ん坊だった息子が大きくなり、そして今がある。
変わらずにあると思っていた家も古びて、この世から消えていこうとしている。
これが、最後なんだなぁ。
次にもしこの場所に来ることがあったとしても、もうこの家はなくなり、代わりにべつの新しい家が建ち、知らない人が住んでいる・・・。
せめて、気持ちのいい人に住んでもらいたい などと、思ったり。
地縛霊の気持ちが少し分かったような気がします(笑)

冗談はさておき、今回、仏壇のことで家族がこの家に集まれたことは、私にとってとても有意義なことでした。
思い出深い家ときちんとお別れをすることで、これまでの人生を振り返り、時の流れに埋もれていた大切なものを掘り起こすことができました。
その宝物を胸に、また先へ進んでいくのですね。
仏壇の本尊はお寺に引き取ってもらい、母も肩の荷を下ろしたようです。
家族みんなが満足して次のステップに踏み出せそうです。

その日、祖父母の家の写真はあえて撮りませんでした。
でも、グーグルマップのストリートビューでしばらくは見ることができます。
どうか、当分の間、更新されませんように。

 

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怒らせてはいけない~母の嘘と子どもの心~

私がまだ子どもだったとき、母の顔にはたくさんのそばかすがありました。
今はほとんど目立たなくなっているので忘れていましたが、先日母のことをブログの記事に書いていて、ふとそのことを思い出しました。
昭和40年代から50年代にかけての当時、今のようなUV対策の方法もなく、無防備に紫外線にさらされていたからなのでしょうね。
生まれてこのかた毎日眺めてきた母の顔に、ほかの人にはないような茶色の斑点があることにある日突然気づいた私。
5歳くらいになっていたでしょうか。
鏡の前に座って化粧をしていた母に向かって、
「どうしてママのお顔には、茶色の点々があるの?」
今の私だったら絶対に言われたくないような言葉を、ストレートに投げかけたのです。
母の目はちらっと私を見て、またすぐ鏡の中へと戻っていきました。
パフを持った手を休めず動かし、粉をはたきながらこう言います。
「これはね、ママが怒ると一つずつ増えていくの。だから、お願い。いい子になって、ママを怒らせないでちょうだいね。」
   えぇ~!!
   そうだったんだ・・・(゚д゚)!
それ以来、母に怒られるような場面が訪れるたびに、
   あぁ、これでまたママの顔の点々が増えてしまう~~~ (>_<)
と、私は内心びくびくしていたのでした。
でも、小さいころの私は何をそんなに怒られたのでしたっけ?
のんびり屋で人一倍マイペースな子どもでしたので、ぐずぐずと要領の悪いところがきっと母をイラつかせていたのだろうということはなんとなく分かりますが・・・
怒られた内容を覚えていないのにも関わらず、「私のせいで、ママの顔が点々だらけになってしまう」と怯えていたことはよく覚えています。
それだけ、衝撃的だったのですね(笑)

大人になってから、このことを母に話したことがあります。
「昔、怒るとそばかすが増えるって私に言ってたよね?」と私が言うと、
母はニッと笑って、「信じた?」
そりゃあ、信じましたよ!
純真な子どもでしたもんっ
ママが嘘をつくなんて思いもしなかったですもんっ
大きくなれば自明のことでも、小さいうちはわからなかったりするものですね(^^;)

懐かしい自分の子ども時代。
もっと早くいろいろ思い出していたら、我が子の子育てもまた違っていたかなぁ・・・?と思う今日この頃です。
4月1日、エイプリルフールに因んだお話でした。

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