日記・コラム・つぶやき

年の初めの運試し

昨年秋から家族で集めていたものがある。
それは、スターウォーズのチョコエッグである。
チョコエッグというのは、卵の形のチョコの中にカプセルが仕込まれている食玩で、カプセルの中身は動物のフィギュアだったり、ディズニーのキャラクターだったり、その折々でいろんなシリーズがこれまで販売されてきた。
この秋冬は、そのスターウォーズバージョンが映画の公開に先駆けて発売されたのだった。

スーパーやコンビニに行くたびに、家族の銘々がこのチョコエッグを一つ、二つと買いためて、シークレット1種を含む全14種のうち、13種が揃うまでは快調だった。
あと1種、なかなか手に入らなかったのが、C-3PO。
スターウォーズではおなじみのキャラである。
これは絶対に外せない。

稀少な存在のシークレットですら、意外にすんなり入手できた。
それなのに、なぜかわが家はC-3POには縁がなく、
何度買っても出て来てくれない。
そうこうするうちに、このシリーズのチョコエッグはだんだん店頭からなくなり、もう買うこともできなくなっていた。

残念だったね という会話を交わしていたのは先月半ば、映画の新作が封切りされた頃だったろうか。
年が明けて、正月二日の夕方。
食料品の買い出しに出かけた私は、行った先の店で思いがけずこのスターウォーズ版チョコエッグを見つけたのだ。
よし、新しい年の運試し!とばかりに、3個購入。
これで出なかったら、本当にあきらめようと誓う。

家に持ち帰り、三つのチョコエッグをテーブルに並べる。
まず次男が一つを開け、器用にチョコを手で割って食べ始める。
お楽しみはチョコを完食してからである。
小さなチョコのかけらを落とさないように、慎重な面持ちですべて食べ終えると、いよいよカプセルを開ける番である。
緊張が高まる。
カプセルを持った両手の指先に力を入れてひねるようにすると、
中から現れたのはBB-8だった。
BB-8は好きだけど、残念!

次のチャレンジは長男。
こちらも慣れた手つきでチョコを割ると、豪快にすべて口に詰め込む。
もぐもぐしながらカプセルをオープン! 
「あ、オレ、天才かも」とこちらに見せたカプセルの中身は
念願のC-3PO、それだった。
やっと出たー!!
ひとしきり盛り上がる。

それでもうシリーズはコンプリートできたので、
最後の一つはなんだっていいのだが、せっかくだから開けちゃおうというわけで、わたくし自ら開けてみた。
ところが慣れないものでチョコがうまく割れず、次男に手伝ってもらいながらなんとかチョコを食べるという美しい親子愛。
さてそこで、取り出したるカプセルを「えいやっ」と開けてみますれば!
見えてきたのは金色のあたま。
また出た!C-3PO~!!happy02
なんと、あれほど出なかったC-3POが、その日2体も出たのである。

なにやら、今年はひどく幸先のいいわが家である。

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       *ちなみに、前列一番右がシークレット。ルークでした。  

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顔が命ではないけれど

最近ひどく驚いたことに、自分の顔のことがある。
顔と言っても、えー!?私ってこんなにブスだったの?とかっていう話ではない。
さすがに半世紀近く生きてきて、今さらそれはない。
こんなとこにシミが!シワが!っていうのも既に強く自覚していることで、悲しくはあるが今驚くことではない。
では何なのかというと、顔のゆがみである。

先日、免許証の更新のために、証明写真を撮影したときのこと。
スピード写真のブースに入り、指示に従って顔の位置など合わせたら、まず一枚目の撮影。
撮れた画像の確認画面が現れ、OKかやり直しかの選択を求められる。
まぁ、撮りながらも前方のミラーでチェックしていたし、そこそこまぁまぁには撮れていたはず。
しかし、目の前に表示された画像の自分を見て、あれ?と思う。
なんか違う。
どこが違うかとよく見ると、まず左右が逆である。
どうしてそういうことになるのか、理屈を考えると頭の中が混乱してくるのだけれど、とにかく!
事実として、鏡で見る自分と写真の自分は左右が逆なのである。
あぁ、それで違和感を持ったのか とそこで納得してしまいたかったが、
それだけではない何かが私の目に訴えかける。
しばらく自分の画像とにらみ合った私はようやく気付く。
口が曲がっているのだ。

おかしいな。普通にしていたはずなのに。
やり直しのボタンを押してから、私は前方のミラーを注視する。
両方の口角を「い~」と引き上げ、笑った口を作ってみて愕然とした。
左の口角は上がるのに、右の口角が上がらないのだ。
なにこれ?
私、どうしちゃったの!!

順番を待つ人がいないのをいいことに、
カーテンに仕切られた個室の中で、一人、躍起になって表情を作ろうとする私。
初めはまるで耳か鼻を動かそうとしているかのような感覚だったが、
右の頬に神経を集中して動かすうちに動かし方を思い出し、
なんとか左右対称な顔の撮影に成功することができたのだった。

しかし、ことは深刻である。
写真が一回撮れればいいという話ではない。
毎日鏡で見ているはずの自分の顔が、知らないうちに変わっているなんて!
いつからなんだろう。
本当に気づかなかった。
お肌の状態の変化には細心の注意を払っていたのに、口が曲がっているなんて少しも知らなかった。

帰宅してからネットで調べてみたところ、
顔というものは、普段のちょっとした生活習慣で変わってくることがあるらしい。
それは例えば、ものを食べるときに左右のどちらかばかりで嚙む癖であったり、頬杖をつくことであったり、就寝時にいつも同じ側を下にして横向きで寝ることだったり。
さらには、脚を組むことや、片方の足に体重をかけて立つこと、左右どちらか決まった方にいつも荷物を持つことなどによって生じた体のゆがみが顔のゆがみにもつながるんだそうだ。
言われてみれば、私にも思い当ることはいろいろある。

そのことを知って以来、私はゆがみに敏感になった。
立ち方、座り方から食べ方にも気を配るようになった。
寝方だけはどうしても仰向け寝が苦手で、横向きになってしまうが、向きを変えるようには気を付けている。
鏡を見ると必ず口角の動きをチェックし、頬の筋肉のマッサージをしたり、顎の関節を動かしたりもする。
その効果が表れてか、口の左右非対称は改善されてきたと思う。

自分本来の顔を取り戻すことができて安堵したが、
気が付かずにいたら と思うとゾッとする。
もともと人間の顔が左右対称にできていないことは知っているが、
今までそうでなかったものがゆがんでくるというのは 
また別のことであり、恐怖である。
そして、そうした顔のゆがみを放置していると、頭痛や腰痛、肩こり、めまいや不眠、自律神経失調の原因にもなり得るそうで、
これからの人生を健康に過ごしたいのなら決して無視できないことだ。

顔が命とは思っていないが、やはり顔は大事である。

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ドライバーの自覚

先日、運転免許証の更新をした。
こう見えて、私、優良ドライバーである。
でも、実のところ、運転はそれほど得意ではない。
方向感覚もかなり怪しい。
だから、知らない場所へは行かないし、遠出もまずしない。
行くのはちょこっと買い物か、子どもの送迎くらいである。
言わば、市内限定ドライバー。
基本、こわいので運転に関しては慎重そのものだし、違反の匂いには極度に敏感。
自分の限界が分かっているから、それを超えて無理はしない。
自分にできることできないことが分かっているのも、
ある意味、優良ドライバーの条件ではないかと思っている。

純粋にドライブを楽しむなら専ら助手席という、
私と同類の女性は世の中にけっこう多いのではないかと思う。
しかし、今やどこに行っても、巷は車であふれている。
車は老若男女にとっての生活必需品となっている。
昨日も車で買い物に行った私は、スーパーの駐車場に車を停めた。
ロックをかけて車を離れようとしたとき、
すぐ隣の空きスペースに車が一台入ろうとしていた。
運転席の窓から後方を見ながら顔を出したのは70代くらいの女性である。
彼女はけっこうなスピードを上げて車をバックさせていたが、
その様子は、手慣れているというよりむしろ、雑な印象だった。
そして、私がそのとき思わず足を止めて見てしまったのは、
駐車スペース一台分ごとに設置されたロック板の端の制御装置と思われるボックス型のパーツに、車の後輪がすれすれで通ったからである。
もし当たったら、タイヤかホイールに傷がつく。
それでヒヤリとしたのである。
運転しているご本人は、そんなことなどまるで頓着していないようだったが、結果、ぎりぎりのところをタイヤは無事通過した。
とはいえ、車体はかなり斜めである。
切り返すわよね?前に出るとき当たらないかな?
と余計な心配をする私の予想に反して、運転者の女性はそのままエンジンを切り、車を降りた。
たとえ車が5cm曲がっていても気になる私としては、それはもう
信じられないくらいの斜めだけれど、
まぁ、車は一台分の枠の中には収まっている。
よっぽど急いでいたのだろうと思うことにした。

買い物が済んで帰ろうとしたとき、また別の車を見た。
その駐車場内で一か所だけ、壁に沿って縦列に駐車するスペースがある。
縦列駐車は苦手だが、そこしか空いていなかったとき、何度か私も停めたことがある。
やってみると、大きい車でなければ、さほど大変ではなかった。
そこへバックで中途半端に突っ込んだ状態で立ち往生している車が一台。
っていうか、その車の位置からして、後部が壁に接触していそうに見える。
運転しているのは、やはり70代とおぼしき女性。
コンパクトカーと言われる車種である。
彼女は車を降りて状況を確認し、また運転席に戻るというのを何度か繰り返していたが、どうしようとしているのか分からない。
傍目にも壁に寄りすぎている以上、いったん出るしかないと思えるが…
いったん出てからまたやり直すか、その場所に入れるのはあきらめるか。
見ているだけで怖いので、あきらめたほうがよさそうだなぁ…と思っていたら、しばらくしてその車はほかの場所に移っていった。

その年代で今も運転しているのだから、お二人ともドライバーとしての経歴は長いに違いない。
車庫入れだって、これまでに何百回、あるいは何千回もしてきたはずだ。
彼女たちを見ていて背中が寒くなるのは、そこに私自身の20年後の姿を見たように感じたからだ。
高齢になると、どうしても肉体は衰える。
若いときに比べて反応も遅くなるし、注意力や判断力も低下する。
認知症など特別な病気になっていないとしても、
運転に必要な車両感覚が鈍ってくることだってあるんだろう。
あのお二人が特別なのではない。
だれだってそうなるのだ。
決して過信はいけない。

最近になってようやく実家の父も運転をやめた。
父にしてみたら、大きな決断だったはずだ。
私は将来、少し早めにドライバーの肩書きを降りようと思う。
だれに言われなくても、多分自然とそうなると思う。
元気なうちに、車のない生活にも慣れておかなくてはならないとも思っている。

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よしなしごと

目を閉じて、自分の中の20年前の扉を開けると
夫と出会ったころの私がいる。
今よりも太った憎たらしいほど元気な義母と、穏やかに笑う義父。
まだ現役で仕事をしている。
そこにはキジオもナノコもいなくて、
お勝手口を出たところには夫の愛犬、家の中はといえば
義父にしか懐かない気位の高いネコが我が物顔に闊歩している。
20年前はあんなに元気だった義父も犬も義父のネコも、その後みんな逝ってしまって、今はもういない。
そして今と違うのは、子どもたちの姿もないこと。
彼らはまだ生まれていない。
今では二人とも、当たり前にうちの子をやってるけど
ほんとうにあなたたち、いったいどこからやって来たのよ?
同じ問いを、目の前のキジオにも投げてみるが、
きょとんとするばかりで返事はない。
太古の昔から、すべて生き物は生まれては死ぬもの。
死ぬということも分からないが、
生まれるって、いったいなんなんだろう。
いなかったものが生み出されて実存のものとなり、独自の意識を持ち、人格を形成し、同じように生み出されてきた他者と関わり合って生きていくって、
とてつもなくすごいことなんじゃないだろうか。

もしもタイムマシンがあって、50年前の世界に行ったらと想像する。
そこには私が存在しない。
そのあと私はどうやってかこの世に生まれて来て、いろんなアレコレを通って現在に至っている。
私はどこからやって来て、どのあたりから「私」になり、
「私」として生きるだけ生きた後はどこへ行こうとしているのか。
行くところなんてあるんだろうか。

この世は仮の宿という考え方もある。
生まれ変わりを信じる人も多い。
そんなふうに考えたら、大切な人との別れが来ても自分を納得させやすいし、自分に最期が近づいても次のステージがあると思えば不安も薄らぐかもしれない。
だけど。
死んだらどうなるかなんて、今生きている人はだれも知らない。
前世やら中間生やらの記憶を語る人が現れたって、それが本当だとはだれも証明できやしない。

だいたいね、魂なんていうものは存在するの?
心の働きは脳の機能によるものなんだからね。
脳細胞やら神経に電気信号や様々な伝達物質が行き来して
巻き起こす産物なんだから。
やがて肉体は滅びるから、そうしたら魂なんてものも泡と消えてなくなるのよ。
それが科学的な根拠のある考え方ってもんなのよ と
息巻いてみたところで、たとえば「脳死は人の死か?」なんて問題を突き付けられたら、すんなりとはその理論を受け入れ難いのも確かなのである。

そこで結論。
人が生まれること死ぬことの謎は永遠に解けない。
誰にも答えは決められない。
だからこそ、どう考えようとその人の自由である!
で。
私はどうしようか。
死んでしまったらそのときは、いっそゼロになるのもいいなぁなんて、ちょっと思ったりもする。
だって、魂が死後の世界も生きるのだとしたら、きっとあとのことが気になってどうしようもなくなるもの。
死んだあとくらいは、無責任にのんびりしたい。
今のところは、ね。

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幸せな悩み

以前に長男が小学校の卒業式に着たスーツをタンスから引っ張り出し、ぼんやりと眺めている。
どうしようかな と思いながら眺めている。
身長が合わないのだ。
あと二か月足らずで、次男も卒業式だ。
どうせ一度しか着る予定はないんだし、なんとか体に合うようにお直しして使うか。
でもせっかくの晴れの日に間に合わせの服というのもねぇ…
心の中のつぶやきは、さっきからずっと同じところを行ったり来たり。
考えがまとまらないまま、ただ目は人形のように吊り下げられた服を見ている。
 ぼくはただ見てる
 それをただ見つめてる
 鬼たちも笑う
 それをただ見つめている

PCの中の星野源が歌う。
私はチョコレートを一粒口に放り込み、なおもその黒の三つ揃えを見つめ、黙って鬼に笑われている。

そこへ当の次男が帰宅したので、私はおもむろに上着をハンガーから外し、スウェットパーカーの上から軽くはおらせてみる。
うん、袖、長い。
着丈も、長い。
でも思ったよりもぶかぶかではなかった。
「これでいいよ」と次男は言う。
そうだねっていう気になる。

このところ、私の気分は混沌としている。
実はこの年末年始を挟んで、父が入院していた。
さほど心配な病状ではなく、すでに退院もしている。
ただ、その間家に一人で過ごしていた母のことが気になった。
母は元来よく気が回り、明るくよくしゃべる人である。
そして、父の入院している間、母は普段にも増して饒舌で、忙しく過ごしているようだった。
電話をしても、会いに行っても、母はとても元気だった。
そんな母に接し、私は安心すると同時に少し心配になった。
母は意識下にも不安や寂しさと戦っている、そんな臨戦態勢にあるのではなかろうか。
父が退院し、いつもの日常が戻っても、時が後戻りするわけではない。
父も母も老いていく。
そう思うと、なんとも切ない思いがこみ上げる。

朝ドラ『べっぴんさん』で、江波杏子扮するジャズ喫茶の女主人が言っていた。
まさかこうして一人で生きていくことになるなんて。
女の一生なんて、分からないものだと。
人生を語るのに男も女もないと思うが、そんなセリフがやけにずっしりと響いてくる。
もし私が突然天涯孤独の身になったら。
脈絡もない空想の中で思う。
電球が切れても交換の仕方すらおぼつかない私が、一人で生きていくなんてできるんだろうか。
自分自身の不甲斐なさに打ちのめされながらも、改めて目の前のスーツを見やる。
本当に、子どもの卒業式の服のことで悩むことくらい幸せな悩みはないんだと思う。

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年末年始 雑感

年末の一連のバタクタを経て、新年を迎えた。
年が明けるということは、一つの大きな区切り。
そう思うからこそ、大忙しの年の瀬なのであり、
準備万端で迎えるからこそ、お正月を過ごす慶びもひとしおなのである。

とは言うものの、店も元日から初売りの始まるこの時代。
なにも大晦日に慌てて食料品を買いだめしなくたっていいのよねぇ
と毎年思う。
だけど、年末にあれやこれやと必要以上の買い物をすることも、
主婦の気分を高揚させる一つの要件になっている以上、
やめるわけにはいかない。

大掃除にしてもだ。
たかだか31日が、一日たって1日になるだけじゃないの
と思えばなにも、殺気立って家中を掃除してまわる必要などない。
いつも通りだって別にどうってことないのだ。
しかし、放っておけばダラっとしてしまう私のような怠け者には
こういうイベント的な要素は必要だ。
メリハリのない生活はきっと私という人間を腐らせる。
そうよ、新しい年を迎えるために身辺を清め、心機一転、仕切り直すのよ!
てなわけで、子どもたちも巻き込んでの大掃除大作戦が、この年末も繰り広げられたのだった。

そして待望の三箇日。
私はカシューナッツをつまみながらお屠蘇の盃を傾け、いつになく大きな満足感に浸った。
世の中がどう変わっても、やっぱりこのバタバタからのまったりという気分の大きな転換はお正月に欠かせない。

お正月準備といっても、本格的なおせち料理の用意はしないわが家である。
朝のお雑煮と、多めに作ったおしるこ。
買い込んだ食材を代わる代わる食卓に並べながらも、数の子と黒豆、かぶの酢の物、それに田作りだけは切らさない。
わが家のお正月はそんな感じである。
わが家というより、私の かな。
自分の好みと家族の需要を考慮した結果、こんなふうにまとまってきた。
嫁として義母の流儀を受け継ぐという要素は、ない。
だって、義母ときたら、「あら、このタケノコ、缶詰め?」なんて真面目に言う人だもの。
タケノコの水煮が真空パックされて一年中売っていることすら知らない人。
年末になると、それがスーパーで山積みされて売っているのも見たことない人。
これまでどうやって生きてきたんだろう。
さっぱり頼りにならない人。

おぉーっといけない、話題を変えよう。
正月早々お年玉を手にした次男、早速買い物に出かけた。
今年初の買い物は、ドラゴンボールヒーローズというゲームのライセンスカード。
先月おねだりされたが、私がダメと言ったもの。詳しくはこちらの記事をどうぞ。
やっぱりねー、とうとう買ったか。
次男には6年生になっても未だ、月々定額のおこづかいをあげていない。
高学年になったらと言っていたおこづかい制度だが、なんとなく延ばし延ばしになって現在に至っている。
もし既におこづかい制度を導入していて、毎月自由になるお金があるのだとしたら、そのカードはとっくのとうに手に入れていたに違いない。
親がいくら反対したって、ほしいものはほしい。
ま、仕方ないか。
でもあんまり、ゲームにお金をつぎ込むんじゃないよ と釘だけは刺しておく。
そんなの分かってるよ と本人は言うものの、その言葉をそのまま信じていいのかしら。
今一つ、信用のおけないところだが、いよいよ春からは中学に上がる次男。
おこづかい制度のこともいいかげん先延ばしにはできなくなった。
今年は本当に考えなくちゃ。
そんなことを思いながら、これから一年の間に起こりそうなあれこれを想像してみる。

大人になっての一年に比べ、子どもにとっての一年は大きい。
それこそどんどん変わっていく。
そういう時間の積み重ねがどれほど貴重なかけがえのないものか。
私自身、子どものときにはそれを全く意識しなかったように、
おそらく息子も全く気付いていないだろうけれど。
過干渉にならないことを心掛けながら、見守っていきたい母である。
しかし本当に我ながら、末っ子にはつい過保護になってしまっていけない。

そうそう、そういえば。
この年末に変わったことがひとつ。
例のごみ置き場に放置されていた仏壇こちらの記事に記載あり)が、とうとうあの場からなくなった。
ごみとして回収されていったのか、あるいはそのごみ置き場の管理者がなんらかの手段を講じたのか、消息は不明だが、
とにかく年越しを前にあの朽ちた仏壇はしかるべき場所へ運ばれ処分されたのである。
やはり、年が改まるタイミングというものは、過去に一切のケリをつけるときであるようだ。

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大門未知子ごっこ

クリスマスもなんのその、年末の大掃除真っ只中の我が家である。

ニットの上からすっぽり割烹着を着て、手にはピッチリした薄いニトリルゴムの作業用手袋。
その白い両手を不自然に顔の高さに掲げて、気取った口調で言う。
「私、失敗しないので!」

それを見た次男、同じポーズを取り
「私、失敗しかしないので!」

やめろー
アンタのそれはシャレにならないんだから~(^_^;)

さて、新しい年に向けて、大掃除後半戦、がんばるぞー!

… ということで、どうぞ皆さま、よいお年を。

 

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ベジブロス

このごろやっと野菜が安心して買えるようになってきました。
ほんと、高かったですよね!!
日常的に買っている野菜の価格高騰は直接家計に響きます。
お店に行っても、萎びたようなキャベツやレタスが1個300円とか400円とか、結局買わずに帰る日もありました。
だけどなんにも食べないわけにもいかないし。
困ったときには、どんなときも安定した品質と低価格のもやしで、ピンチをしのいできました。
もやしは栄養もありますし、もやし嫌いの息子たちがちょっと不服そうにすることさえ目をつぶれば、万事OKです。
でもそんな状況が長引くのは、消費者だけでなく、お店側も生産者もみなさんさぞお困りになったことでしょうね。

さて、そんな中で再燃したマイブームがありまして、
それは、ベジブロスです。
ベジブロスとは、野菜の皮やヘタなど、ふだんは捨てている部分を煮出してとるお出汁です。
野菜のうまみが出ているだけでなく、抗酸化作用のあるファイトケミカルが豊富に含まれ、健康や美容に効果絶大と言われています。
そう聞かされれば、使わない手はないですよね。

さきほど「再燃」と書きましたのは、昨年冬から今年の春にかけて一度はまっていた時期があったからです。
そのころは二日か三日に一度は、集めておいた野菜くずを使ってベジブロスを作っていました。
冷蔵庫には常にベジブロスのストックがあるような状況です。
かなり気に入っていましたので、野菜を買うのも「いいベジブロスが作れそう」という基準でしたし、野菜を使って料理するのもベジブロスの材料を増やすためのような、ここまで来ると完全に本末転倒になっている私なのでした。
でも、夏になり気温が高くなると、野菜くずも傷みやすくなります。
一定量たまるまで置いておくのが少々不安になったためにベジブロスを作るのを止めていたんです。
そして秋になり、野菜の高値が続く中で、再び始めたベジブロス作りです。
だって、貴重なお野菜ですもん、皮だってヘタだって種だって、ただ捨てるなんてもったいない!

ベジブロスの作り方はいたって簡単です。
両手いっぱい程度の野菜くずがたまったら、水1300ccにお酒を大さじ1ほど入れてお鍋で煮るだけ。
その分量で出来上がりは900~1000ccくらいになります。
時間もアバウトですが、私は沸騰後20分くらいで火を止めまして、その後、ざるで濾して野菜くずを取り除いたら出来上がりです。
使う野菜に厳密な決まりはないようですが、使うものによって当然ですが味が変わります。
初めの頃は、なんでも手当たり次第に入れていましたから、微妙に失敗もありました。
カボチャのわたは、栄養面では優れていますが、たくさん入れると渋くなり(~_~;)
次からは入れるとしても少しだけ、それも早めに取り出すようにしました。
向かない野菜としては、ナスなど紫色の野菜。
これは仕上がりの色が悪くなります。
そのほかには、キャベツやブロッコリー。
キャベツの芯やブロッコリーの茎などはいい出汁が出そうな感じなのですが、煮込むと独特の匂いが出てしまうのだそうで、でもどうしても入れてみたいときは少しだけ入れることにします。←けっこうチャレンジャー(*^^)v
私がよく使っているのは、かぶや大根、にんじんの皮、玉ネギの皮。
玉ネギはきれいな赤い色が出ますので超オススメです。
そのほかには、ピーマンのヘタと種、りんごの芯や皮、トマトのヘタ、長ネギの緑の部分、セロリの葉、アスパラガスの皮、スナップえんどうのヘタとスジなど、特別なものを用意しなくても、ふだんポイっと捨ててしまっているものを使えばいいんです。
あぁそうそう、ジャガイモの皮は自分でも意外なお気に入りとなりました。
変わったところでは、スイカの皮なんかも使ったことあったなぁ。

いろいろやっているうちにだんだん要領も分かって来て、自分なりのアレンジが楽しめることも魅力のベジブロスですが、ちょっと気になるのが農薬です。
無農薬とうたわれているもの以外は、使われているのが売り物の野菜。
農薬への対策をネットで調べると、お湯で洗うとか重曹を使って洗うとかの方法も出ていましたが、私はそこまではしていません。
強いて言うなら、心配だったら使わない。かな。
もともと捨てるものなので、少しでも不安要素があれば無理はしません。捨てます。
国内産の野菜なら農薬の基準値がごく安全なレベルに定められているということのようですので、それを信頼し、ナイロンのメッシュクロスを使って丁寧に水洗いだけしています。

そうやって作ったベジブロス、試しにできたてを一口味見をするんですが、うわ♪おいし~い …とは、正直なところなりません。
テレビのリポーターはそうなるんでしょうけれど、私は一度もなりません(^^;)
微妙な、やさいの味。です。
しかし、これを料理に使うと、違うんです!
例えば、スープや味噌汁、カレー、炊き込みご飯などに水の代わりに使いますと、味が歴然と違います。
味噌汁の場合ですが、ベジブロス自体が出汁ですから、ほかの出汁を入れなくてもいいのでしょうが、私はいつものかつおだしをいつもの半量ほど入れます。
そしてお味噌も少なめに、まずはいつもの半量入れてから味を見て足していきます。
カレーだったらルーを少なめに、1キューブ減らすくらいでちょうどいいんです。
つまり、ベジブロスが旨みを持っている分、減塩でいけちゃうんです。
これは塩分を控えたい方にとっても朗報なのではないでしょうか。

いろいろな料理に幅広く使えるベジブロスですが、その使い方に一つだけ気を付けるとしたら素材と料理の相性です。
一度、セロリを使ったベジブロスでうっかり味噌汁を作ったら、味がミスマッチでした。
コンソメスープだったらよかったんですよね(^_^;)
香りの強い野菜を使うときは、少し注意が必要です。

料理好きというワードからはかけ離れたところにいるワタクシが
ぐつぐつと野菜くずを煮込んでいるさまは、料理というよりなにかの実験のような様相を呈しておりまして、
そうしてできたものを息子たちは魔女の煎じ薬かなにかのように
思っているようですが、
大丈夫よ。
これを飲んだからと言って呪いがかかったりはしませんからね。
ふっふっふっ( ̄ー ̄)ニヤリ

Photo
        *ベジブロスを初めて作ったころの画像です。
         あるものをあるだけぶち込んで、ごちゃごちゃですが…

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憂鬱な気分と子どもの遊び

窓からは日差しがふりそそぎ、穏やかな日曜日である。
しかし、いいお天気とは裏腹にどこか気分がのらない私。
せっかくのお出かけ日和も、なんの予定も入れずにだらだらと過ごしている。
このところの私はずっとこんなふう。
師走の声を聞き、頭の中にはやらねばならないことがいくつもリストアップされているが、どれひとつ手を付ける気にならない。
早く取りかからないと後で自分がたいへんになることも分かっているし、そうなったときには今この瞬間に重い腰をあげるよりもより苦しい思いをするのも分かっているのに、
それでもこうして、取りあえずブログの更新を優先してしまう私なのである。

ここ一週間を振り返ってテンションの上がったことといったら、
数日前に15歳のお誕生日を迎えられたという愛子さまのニュースをぼんやり見ていたときである。
体調を崩されたせいなのか、ずいぶんとほっそりされた愛子さまが座っていらっしゃる映像が流れる。
そのお膝には、ネコ。
あら?ちょっとー!!
愛子さまのにゃんこ、キジオに似ているじゃないの~sign01
ほらほら、顔のところの柄の入り方とか、そっくり~~~lovely
などと言って、ひとしきり騒いでいたことしか思い浮かばない。
お昼ごはん用にと買っておいた中村屋の肉まんあんまんの徳用袋に貼られた懸賞の応募シールも、躊躇なくゴミ箱に捨てている自分に気付き、どれだけ気持ちがふさぎ込んでしまっているかを改めて自覚するに至ったのである。
あー、いかんなぁ…
なんでこうもやる気が出ないのかしら?
これってまさか、いわゆるプチ鬱状態?
ま、そんな大げさなものじゃないわよね…と一人ブツブツつぶやく私。
新しく購入し、セットアップされるのをじっと待っているPC用プリンターの箱を前に、今日も悶々とそれをしない言い訳を考えているのである。

そんな私、昨日は次男を連れて買い物に出た。
思えばそんなことも久しぶりである。
いつまでも甘えん坊の次男ではあるが、このごろではさっぱり、
親の買い物になど付き合わなくなっていた。
どうやら私が出向こうとしている大型スーパーマーケットの子供用品の階にある、ドラゴンボールヒーローズというゲーム機がお目当てのようである。
1回100円で遊べるというアーケードゲームだということ以外、そういったことに疎い私にはよく分からないのであるが、子どもたちの間では人気があるらしい。
親の知らないところで、子どもは面白そうなものに嗅覚を働かせる。
聞けば、友達同士でこれまでにもその店によく出入りしているらしい。
まぁ、ゲームセンターなどでなく、スーパーマーケットの一角にあるということも、安心して遊べる理由になっているのだろうけれど。
たまにはまぁいいかと思い、軽い気持ちで百円玉2枚を次男の手に握らせ、私は同じ階の文具売り場へ向かう。
売り場を一回りして年賀状書きのためのペンを購入し、さきほどのゲームコーナーに戻ってみて驚いた。
さっきは子どもがパラパラしかいなかったその場所に、ちょっとした人だかりができている。
しかも見覚えのある顔ぶれ。
次男の学校の同級生たちだった。
なに、ここ、あんたたちのたまり場なの?coldsweats01
しばらく次男の横に立ち一緒にゲームを覗いていたが、中にはすごい量のカードを持っている子もいて、いかにも手慣れたふうに遊んでいる。
これが今の子どもの遊び方なんだろうか。
まぁ、数人で集まっては携帯ゲーム機で遊ぶ姿はよく目にするし、本人たちはそれとさほど変わらない意識でやっているのだろうけれど。
そういえば、もう10年以上前のことだが、長男が小さいころに
ムシキングというアーケードゲームが流行って、何度か私も付き合ったことがある。
そのときも、少し大きい小学生の子たちは、分厚いカードの束を持ってゲーム機に群がっていたっけなー…
そのころは、1回100円を使って画面の中の虫を戦わせ、カードを一枚お土産に持って帰ればそれで満足だったが、今のは違う。
なんでも、ヒーローライセンスとかいうカードが600円ちょっとで販売されていて、それを使うと対戦内容をセーブでき、経験値をためてレベルアップとかなんとかかんとか?
よくわからないが、要するに継続してこのゲームを遊ばせようとする仕掛けになっているのである。
そして、そのライセンスなるカードのお試し版がその店で無料配布された折に、次男はすかさずもらいに行っていて持っていたのであるが、使用期限が切れたかなんかで今は使えなくなっているんだとか。
えーっ、いつのまに!?
そんなの持ってるなんて、知らなかったーcoldsweats02
え?新しいの買ってくれって?
やーよgawk
いくら1回100円でも、子どものうちからお金を使って遊ぶなんて!
あのとき次男とともにゲーム機の周りに集まっていた子たちは、
いったいいくらお小遣いをもらって来ているのだろう。
あのゲームひとつに、総額いくらつぎ込んでいるんだろう。
そう考えながら、首元が寒くなる思いを抱え、店を後にした私である。

思春期にさしかかった子どもは親と距離を置きたがるものだが、
たまにはこうして行動を共にしてみるのもひとつである。
お昼ごはん買って食べるから、お金ちょうだいなどと言われても、
これからは簡単にお金を渡すまいと、
ただでさえブルーな気分に染まっている私は、心を鬼にしているのである。

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天の邪鬼

子どものころからずっと、赤やピンクが嫌いだった。
好きな色を選ぶように言われるときは、いつもだいたい寒色系か、
たまに黄色を選んでいた。
それが自分に似合いの色だと、心の底から思っていた。

時が過ぎて今、気付けば赤は嫌いじゃない。
あんなに毛嫌いしていたピンクも、けっこう好きになっている。
あれあれ? 私っていつからそうだったのかしら。

色についての記憶をたどると、まず思い出すのはランドセルの赤だ。
入学を数か月後に控えたある日、父方の祖父母から新品のランドセルが送られてきた。
そのことはとても嬉しかった。
祖父母のことも大好きだったし、小学校に上がることはとても楽しみにしていた。
だが、その私の心を曇らせたのは、ランドセルが赤いということ、ただその一点。

「ねぇ、なんで赤なの?」と口を尖らせる私に、
「だって、女の子は赤でしょ」と言う母。
そりゃあね、いくら小さくてもそれくらいは分かる。
周りを見ても、女の子はみんな赤いランドセルを背負っている。
当時、ランドセルの色といったら赤と黒に決まっていた。
知ってるけど… でも、私、ほかの色がよかった…
赤じゃないほかの色なら、男の子が持つ黒でもよかったのに。
子ども心にもそれ以上言ってはいけないと思い、不満の言葉を飲み込む。
地元の公立小学校ではなく、どこぞの附属小学校に通う制服姿の女の子が、学校指定の黒いランドセルを背負っているのを見たときには、羨ましさのあまりガン見してしまった私。
見られた子はさぞ気持ちの悪い思いをしたことであろう。

なぜそこまで、私は赤が嫌だったのか。
そのことについて、今まで考えたことはなかった。
ただ、私という人間は赤が嫌いなのだと思っていた。
さらにはそのついでのように、女の子の多くが好むピンクという甘ったるい色も、私には受け付けられないのだと思っていた。
私は、赤とかピンクとか、そういういかにも女の子女の子したものとは無縁の人間なのだと、心の奥底で密かにうそぶいていたのだった。

しかし、である。
赤やピンクをそんなにも自分から遠ざけていたのは、実は色そのものが嫌いだったわけではないということに、ごく最近気が付いた。
私は、赤やピンクが嫌いなのではなく、女の子はこの色と決めつけられることが嫌だったのだ。

思えばランドセルだけではなかった。
洋服や他の持ち物も、周りの大人が選んでくれるものはいつも赤で、そこに幼い子どもが自分の好みを主張する余地はなかった。
それも仕方がないことだったと今は思う。
そういう時代だったし、今のようにいろいろな色を選べるほど多彩な商品もなかった。
それにもし、そのときの私がどうしても黒のランドセルにすると言って譲らなかったとしても、弁当箱の二の舞になるだけだったろう。

赤が嫌いだったわけじゃなかったんだということが分かって、
いま私は、からまっていたものがほどけたような、引っかかっていたものがすっと腑に落ちたような、爽快な気分である。
赤やピンクを拒絶する一方で、それに相反する気持ちがいつも心のどこかにあり、けれども自らその気持ちを強く打ち消す といった複雑な心の動きが、今から思うと私の中にはあったように思う。
自分自身のことなのに、それが分かるまでに40年もかかるなんて
本当におかしな話だけれども。

私が今の時代の子どもだったなら と想像する。
ずらりと並んだ色とりどりのランドセルを前に、さぁ好きな色を選びなさいと言われたら。
以前の私なら、水色のランドセルと答えただろう。
でも、自分の本当の気持ちを知った今は少し違う。
たくさんの色の中から選べるのだとしたら、敢えて私は赤を選ぶのかもしれないと思うのである。

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