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2016年10月

謎の仏壇

少し前から気になっていることがある。
いや、少し前というよりも、かなり前からだ。

次男が通う学習塾に、私か夫がいつも車で送迎している。
自宅から車で7~8分ほどのところにあるマンションの一階が塾になっており、いつも車を停める場所の近くにそのマンションのごみ置き場があるのだが、そこにいつの頃からか仏壇が捨ててあるのだ。
それはその場に全くそぐわない、というよりあってはならないものがそこにあるという感じで、いやでも目につく。

そのことに気付いてから、少なくとも半年は過ぎている。
雨風に晒されたまま放置された仏壇は、日に日に状態が悪くなり、今ではひどく壊れ扉もなくなってしまった。
中に仏像などはなく、あるいは誰かがいたずらして持ち去ったのかもしれないが、がらんどうである。
車を降りる次男とともに、「まだあるね」とその仏壇を確認するのが最近では習慣になってしまった。

おそらく可燃ゴミの回収日に出されたのだと思う。
ゴミの回収車は定期的に来ているはずで、しかし一向に回収されないところを見ると、なんらかの理由で回収しないものと思われる。
ものが仏壇だからだろうか。
回収の担当者が信心深い人で、仏壇をほかの雑多なゴミと一緒に回収することに気が引けるということなんだろうか。
あるいは、粗大ごみとして扱うべき大きさであるからだろうか。
遠目に見て小型の仏壇だが、近寄って見れば意外に大きいのかもしれない。
きちんと料金を払って所定の施設に持ち込むのでなければ、処分できないということも考えられる。
自分にはなんの関係もないことであるのだが、それを目にするたび、どうも気になって仕方がない。

いったいだれが捨てたんだろう。
マンションの住人か?
もしそうなら、自分がゴミに出した仏壇が回収されずに長いこと放置されている事実に気付いているはずだ。
もしかしたら、引っ越しの際にそれをゴミに出し、そのままどこかへ移っていったとか?
もしくは、ほかの地区に住む人がわざわざそこに仏壇を持ってきて捨てていったということだって、ないとは言えない。
いずれにしても、仏壇の元持ち主にそれを引き取る意志がないことははっきりしている。

元持ち主が持ち帰らず、回収車も回収していかないとなると、
あの仏壇、いったいこのあとどうなるんだろう?
この始末をつける責任はだれが負うことになるんだろう?
マンションの管理組合? いや、管理会社かな。
あるいは、しびれを切らした善意のだれか?
少なくとも、通りすがりの野次馬が、あれこれ口出すことではないのは確かである。
しかし、あー、モヤモヤする…bearing

あの仏壇がこの先もずっと放置されたら、さらに傷みが進んで、いずれは原形もとどめないくらいボロボロの、ただのゴミになってしまうんだろうと思う。
そうなったら、可燃ゴミとして回収される日も来るのだろうか。
仏壇がゴミと認知されていく貴重な過程を今、私たち親子は固唾を飲んで見守っている ということなのか。
手出し口出しのできない立場でありつつも、ここまできたら最後まで事の成り行きを見届けたい。
もしもあの仏壇をあの場から撤去する人が現れたら、その処分の詳細を記した看板でも立てて、ことの顛末を掲示しておいてほしいくらいだ。

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財布

主婦のほかのみなさんはどうしていらっしゃるのだろう。
私はいつも財布を二つ持っている。
一つはプライベートな財布で、いわゆる自分のお小遣いを入れている。
もう一つは主婦の財布。
生活費を入れておき、毎日の食料品や生活雑貨などの買い物はこちらから支払うようになっている。
財布を二つ持ち歩くのは荷物が増える煩わしさがあるものの、
家計を管理する上ではたいへん明瞭でいい。
次の給料日までの日数を財布の中身でまかなうのだと思えば、
財布のひもの引き締め具合も自然に分かる。
また、生活費専用の財布があると便利なのは、夫に買い物を頼むとき。
お財布をポンと渡し、「パンと牛乳、買って来てheart01」と言えばよい。
heart01のマークと、あれこれ買い過ぎないでね の一言を忘れてはいけないのであるけれども。
わが家ではそういう場面はけっこう多いので、
以前は赤い財布を使っていたが、夫が持ち歩くときのことを考慮して、最近では男物の財布に替えた。
よく行くお店のポイントカードも財布に入っているので、誰が買い物したとしてもポイントを付けてもらうことができ、たいへん効率的でもある。
我ながら、いいシステムだと自負している。

さて、今日の本題は実はそちらではなく、プライベートの財布のほう。
私個人のお財布は黒い革のNina Ricci。
6年は使っている。
使い始めてからは6年だが、この財布はさらにその数年前にいただいた、義父からのプレゼントである。
文具や小物が好きな人で、物選びには独特のこだわりを持っていた。
きっと店頭で一つ一つ手に取り、吟味し、その黒の財布を選んでくれたのだと思うと、嬉しくて、ありがたくて、すぐに使うことのできなかった私。
義父がこの世を去ってから、いつもバッグに入れて持ち歩くことにしたが、今思うと、それも少し申し訳ない。
義父が存命の間にこそ、使えばよかったんじゃないだろうか。

その財布の札入れ部分は中に仕切りがあって、入れるところが二つに分かれている。
その一方にはずっと、五千円札が一枚入れてあるのだが、
これは義父が財布を私にくれたときに入れてくれたものである。
「空の財布を人に贈るものじゃない」というのが義父の持論だった。
でもふつう、入れるとしても五円玉とかだよ?
同じ五でも、いいのかなーcoldsweats01 とは思ったけれど、
義父の気持ちに素直に甘えることにした。
だけど、やっぱりありがたすぎて、その五千円は今も使えない。
多分これからも、天と地がひっくり返るようなことでも起きない限り、そのお札はその財布に入れたまま、お守りのように持ち歩くことになるのだろうと思う。

革が馴染んで形も少し膨らんだその財布をじっと見ていると、
義父の声がよみがえる。
もとは赤の他人が突然家族になり、同じ家で暮らす中には
いろいろなことがあり、決していいことばかりではなかった。
それでも、今、私の胸に去来する思いは、暖かな色彩を帯びている。
義父にとって最後の入院となった日の朝、私の手を取って何度も
「ありがとう」をくり返したその声を、私は生涯忘れない。

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義母のコップ

それはおそらく、私がこの家に来たときにはすでにあったんだと思う。
義母が洗面所で歯みがきやうがいをするのに使っている、
プラスチック製のピンクのコップ。
えらく物持ちのいい義母である。
自分の買い物にはマメに出かけるほうであるが、
きっと、洗面台で使うコップは他人に見せる物でなし、
ちょっとくらい古くて汚れていたとしても買い替えの対象には
ならなかったらしい。
しかし、他人様にはそうだとしても、同じ家で暮らす家族の目には触れる。
私にはそのピンクのコップは、気になって気になって仕方のないものだった。

だってね、はっきり言って汚いんだもの!sad
古いのはいいとしても、義母はそれを使ったあと、きれいに洗わないのだ。
だから、歯みがき剤やうがい薬なんかの色が残っていたり、
底に濁った水がたまっていたり、見るからに気持ちが悪いのだ。
「お義母さん、コップが汚いですよ」とは嫁の立場ではさすがに言えず、義母がいないときにこっそり洗ったりしていた私。
顔をしかめておっかなびっくり。
シンクの排水溝のドロドロだって平気で洗える私なのに、
義母が口をつけた跡がくっきり残るそのピンクのコップを洗うのだけはいやでいやでたまらなかった。

そんな日々を20年近くも(!)過ごしたわけであるが、義母がコップを買い替える気配はなく、きっと義母は死ぬまでそのピンクのコップを使い続けるつもりに違いないと私もあきらめていたのだった。
なるべく見ないようにする習慣が少しずつ身に付き、時にスルーできるほどに私も変わってきていたのだが、果たしてそれは良い変化と言えるのだろうか?
汚いことに慣れるなど、冷静に考えれば、あってはならない。
それでも、そうやって冷静になるには私も未熟すぎたのである。
そしてとうとう、見て見ぬふりのうまくなった私の目を覚ますような衝撃的な出来事が起きた。
私は気付いてしまったのだ。
義母のコップのふちや内側についている黒い汚れがカビであることを!
そしてその黒カビは、あろうことか、義母の歯ブラシの柄の部分にも付いている!!うぎゃーshock

あぁ、どうしよう。
あなたが毎日お使いの歯ブラシとコップにはカビが生えていますよ なんて、私、言えない…
だけど、そのままにしておくには、怖すぎる…
こうなったら、方法はひとつ。
新しい歯ブラシとコップを買ってきて、プレゼントしよう。
そうすれば、きっと今のものは廃棄してくれるだろう。
そうとなれば、一刻も早く!と思っているところへ、
なぜかそのタイミングで子どもたちが相次いで熱を出す。
買い物に行けないまま、瞬く間に一週間が過ぎてしまった。
その間も洗面所に行くたびに、胸の真ん中に沸き起こる不快な感覚に苛まれ続けた私。
一度はまさに義母がその歯ブラシを使い、そのコップで口をすすぐ場面に出くわしてしまい、卒倒しそうになる。
お義母さん、いいかげん、自分で気付いてよsweat02

なにも気付かない平和な義母と、一人心の中で紆余曲折を経てきた私。
どう考えてもこっちが損をしているが、損ついでに今日やっと、
義母のために新しい歯ブラシとコップを買い求めたのであった。
これであの苦しみから私は解放されるのだが、
今後はもしかして、定期的に新しいものを私が買い与えることになるのだろうか?と思うと、
それはそれで少々腹立たしくもある。
仲のよくない嫁と姑の、ほんとうに複雑で微妙な関係。

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芸能人ブログなんて興味なかった私だけど

小林麻央さんのオフィシャルブログ「KOKORO.」を読んでいる。
そこに綴られた闘病中のさまざまなひとコマは、彼女が日々の生活を愛おしみながら生きている、その実感を伝えてくれる。
病気が分かったときの衝撃と戸惑い。
家族への思い。
生きようとする決意。
決して楽観はできない状況の中で、現実から目を逸らすことなく、彼女は自分の人生を歩いている。

人には触れられたくないこともある。
踏み込んで来てほしくない、心の領域もある。
しかし、そんなことはお構いなしに、彼女の病気はマスメディアに取り上げられてしまった。
有名人というのはこんなとき気の毒だと思う。
もしこれが、無名の一般人で、噂になるのが町内会のレベルであったなら、誰しもがずけずけと口にしていい話題にはならないだろう。
普通の人なら、それくらいのデリカシーは持ち合わせているはずだ。
それも有名人の宿命と思っているのかいないのか、
9月に入ってブログを始めた麻央さん、
癌に隠れず生きていく決心を伝えたのであった。
その心意気、天晴れである。

すると今度は一斉に、
「闘病中の小林麻央さんがブログを開設されました」と各種メディアが報じる。
その後、麻央さんがブログを更新するたびに、
「麻央さんがブログでご自身の心境を明かしました」と報道される。
ネットに流れるニュースを見ていれば、ブログを読まなくても内容が分かるくらいの過熱ぶり。
こういうのって、正直うんざりだ。
麻央さんがブログに書いたことを、ほかのサイトで、しかも解説付きで読む必要ってないと思う。
まったく無用のおせっかい。
麻央さんだって、美談としてマスコミに取り上げてもらうためにブログを書いているんじゃないだろう。本人に聞いたわけじゃないけどね^^;
自分の体験を同じような境遇の人と共有することで、誰かの力になれるんじゃないかという思いでブログを発信しているのだし、またブログを書くことでご自身を鼓舞している面もきっとあると思う。
ブログの文面には著せない闘病のつらさやネガティブな思いだって、絶対あるはずだから。
だから、必要とする人が麻央さんのブログにアクセスし、そこで麻央さんの言葉を受け取るのでなくては、意味合いが違うのだ。
だれかの思いに触れるには、言葉がその人独自の調べに乗っていなくては。

私が彼女のブログで垣間見てきた麻央さんは、とても誠実に、そして真摯に現実に向き合っていらっしゃる。
ご主人が笑うのを、「いつからこんな優しい顔をするようになってたんだろう」(9/18記事)としみじみ思い、また「僕たちは、(大変なときにバラバラにならずに)一致団結できる家族だと思っている」というご主人の言葉に強い絆を感じ(10/2記事)、病気にならなければ味わうことのなかっただろう幸せをかみしめる。
ご主人だけでなく、身内の方々との何気ないやりとりにも、彼女の生きる喜びがあふれている。
一生を健康に過ごす幸せがある一方で、身に病を得てもこうして人は幸福を感じることができるのだ。
麻央さんがブログでそれを見せてくれている。

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