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2016年7月

作文の思い出 (3)

私が中学3年のときの担任は、美術の教師だった。
太い黒ぶちのメガネに禿げ上がった額、後頭部にはクセ毛が無造作にはねており、たばこ臭い息を吐きながらヤニのついた歯をむき出して豪快に笑う。
いかにも、芸術家然とした風貌の、面白いオッサンだった。
痩せていたので実年齢よりも老けて見えていたのだろう。
教員の定年が60歳であるから、現役の当時はまだ50代だったわけだ。
今の自分がその年代に近づいていると思うと、ちょっと複雑な心境になる。

私たちは先生を、名字の一文字を取って「ハマさん」と呼んでいた。
ハマさんは自分を「ボク」と呼び、生徒を「キミ」と呼んだ。
そんなキザな印象の言葉も、ハマさんの口から出るとどことなくユーモラスに響く。
ハマさんの喋る口調は陽気で独特の味があった。
怒っていてもどこかおどけているような、また強烈な自分の世界を持っていながらもどんな個性も受け入れてくれるような、
ハマさんは、とらえどころのない、けれどもとても懐の深い先生であった。

美術の時間に、額縁の制作をしたときのこと。
それは、木製のパーツを四角に組み立てたものの表面に、自分でデザインを考えて彫刻を施し、ニスを塗って仕上げるというものだった。
私が彫刻刀で自分のデザインをほっていると、そばを通りかかったハマさんが「おぉ!」とわざとらしいほどの声を上げて立ち止まり、机の上から制作途中の私の作品を手に取ってみんなに見えるように高く掲げて言う。
「ちょっと見て!これはすごい。これはね、ちょっとしか彫らなくてもたくさん彫ったように見える。そういうデザインなんです。はっははは…」
せ… 先生~coldsweats01
それ、全然ほめてないですってば!sweat01
ていうか、図星ですsweat01sweat01
やっぱり、手を抜くと分かっちゃうのね…shock
それでも、取りかかってしまったからには、最後までそのデザインで貫いた私である。
そのときの美術の成績、どうだったんだっけ?記憶にはございません~^^;
と、まぁそんな感じで、どこまで本気でどこから冗談なのか、よく分からないハマさんなのだ。

前置きが長くなったが、ここからが作文の話である。
ハマさん学級では、班日記というのがあった。
クラスの席順で分けた班ごとにノートが渡され、班員が交代で日記を書く。
日記といっても内容はさまざまで、要するにかなり適当だ。
授業の提出物とは違うので、それこそ何でもありの、ゆるいものだった。
だから、ノートが自分のところに回ってきてもたいして心の負担にはならなかったし、あったことや思ったことを気軽に書いたり、書くことがなくても日ごろ感じていたことなどを楽しんで書いていた。

そして、ハマさんは各班の日記から毎週3つか4つの記事をピックアップし、それを学級通信に掲載した。
ハマさんがノートから記事をそのまま書き写した手書きの学級通信が発行された日は、帰りの学活の時間にみんなでそれを読む。
読む というか、ハマさんがそれを読み上げるのを聞く。
B4サイズの藁半紙に細かい字でびっしりと書かれたものを、コメントを交えつつすべて読むのだから、けっこう時間もかかる。
それでも、帰りが遅くなるなどと文句をいう生徒は一人もいなかった。
クラスの中の誰かの日常をつづった文章を読むというのも、その人の知らなかった一面が見えたりして、とても新鮮だった。

ハマさんの選ぶ文章は、すべてが名文というわけでもなかった。
中には、「今日は○時○分に起きて顔を洗い、○時○分に朝ごはんを食べた。○時○分に家を出て学校に行き、授業を受け、お昼に給食を食べた」というような、一日のタイムスケジュールを羅列しただけの男子の記事もあったりした。
しかし、それをハマさんが読むとミラクルが起こるのである。
独特のハマさん節に乗ると、ごはんを食べ学校に行ってお風呂に入って寝ただけの退屈な一日が、なんともいえないコミカルで愉快な色彩を帯びてくる。
夕飯を食べたというところに話が進むころには、爆笑の渦が巻き起こるのであった。
終わりまで読んでハマさんはコメントする。
「いや、素晴らしい!ボクぁ~、好きだなぁ」
クラス全員の拍手喝采を浴びて、それを書いた本人が一番びっくりしていたことだろう。

ハマさんの班日記は学級経営の一環で、作文の上達を狙ったものではなかったけれど、本来、作文指導とはこんなふうでなければならないのではないだろうか。
作文は書いて終わりではなく、必ず読み手がいる。
書き手は自分の体験や思いを伝えるために文章にするのだし、それがどんなふうに読み手に伝わるのかを見届ける必要がある。
そして、読み手はそれぞれに自由な解釈をするものだ。
書き手本人さえ気づいていないその文章の魅力を読み手側が見つけるとしたら、それはとても高度な学習なのだと思う。

あのころは、ハマさんをちょっと変わったおかしな先生だと思っていたが、今ごろになってその偉大さを知るのである。

 

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作文の思い出 (2)

作文といえばもう一つ思い出すのが、長男の作文の宿題である。
今は高校生の長男がまだ小学3年生のとき、2~3ヵ月に亘って毎週金曜日に作文の宿題が出たことがあった。
テーマは自由、たしか原稿用紙2枚程度の作文を翌月曜日までに書いてくるという宿題だ。
これには全く、ひどい目にあった。
要領のいい子どもならなんということもない宿題なのかもしれないが、私同様に作文が大の苦手だった長男は週末になると頭を抱えていたのだった。
初めはそんなに毎週宿題が出るとは思っていなかったので、なんとか書き上げた作文を学校に持たせ、私もやれやれと肩の荷を下ろしたのだが、
ホッとするのも束の間、また金曜日が来ると同じ宿題が出される。
その頃は金曜日のたびに、
「え?またなの?」
「今週もなの?」
「また作文の宿題あるんだよね…」
暗い顔でうなだれる長男とともに、私までどんよりsweat02

習うより慣れよということだったのだと思う。
難しく考えなくても、思いついたことを好きに書けばいい。
数をこなしていくうちに、文を書くコツも分かってくるだろうし、
毎週書くのだと思えば普段の生活の中で題材を探そうとする目が養われ、自然とものごとを深く考えるようにもなる。
きっと先生の狙いはそんなところにあったのだろう。
そうは思っても、現実には作文嫌いの子どもにとって、毎週の宿題は拷問に等しい。
理想的な筋書き通りにはいかないのである。

そうやって、作文に縛り付けられる週末がしばらく続いた。
なにか題材にできるような目立った出来事があるときは、けっこうすんなり書くのであるが、書くことが思い浮かばないときの苦痛なこと!
それでも長男はがんばっていた。
白い原稿用紙の前で、机にかじりついて、がんばっていた。
なにかヒントになればと思い、こんなのはどう?あんなのは?と提案してみても、長男は「う~ん…」と唸っているだけ。
自分の中から出て来るものでなくては、文章に起こすのは難しいようだった。

その宿題さえなければ自由に楽しく過ごせるはずだった休日。
それと引き換えにするほどの価値が、作文にあるのだろうか。
書く力の重要性は理解しているつもりの私である。
もちろん、回数を重ねることで伸びてくる子もいるだろう。
しかし、作文に休日のすべてを費やし、苦しい思いをしていた長男を見ていると、3年生の子どもにただ書くことを無理強いするより、ほかになすべきことがあるようにも思われた。

作文の宿題が始まって、5、6週間たったころだろうか。
土曜日、日曜日と二日間机に向かっても、まるっきり書けない週があった。
あまりにもつらそうで見るに忍びなくなった私は、今週は宿題を休もうと長男に言った。
「お母さんがそう言ったって、先生に言ってもいいから。」
と、そう言ったが、ガンとして聞かない長男。
クラスのほかの子たちはどうなんだろうと思い訊いてみると、提出していない子もけっこういるらしい。
「じゃあ、なおさらだよ。これまで毎回出してきたんだし、一回休もうよ。」
いつもなら絶対に言わないような私の言葉にも首を縦には振らない長男。
頑固だcoldsweats01 偉かったけどcoldsweats01
そして、その日は夜遅くまでかかって、とうとう作文を書き上げたのだった。

翌月曜日、長男が学校から帰ると私は真っ先に言った。
「どうだった?作文、出した?」
すると、思いもよらない答えが返ってきた。
書いて来なかった子があまりにも多くて提出期限が延びたのだそうだ。
はぁ!?coldsweats02
それで、なに、集めてもらえなかったの?
持って帰って来ちゃったの?
あんなに苦労して書いたのにぃ!?
そのときほど、教師に対して怒りを感じたことはない。
長男を含め、少数であってもきちんと宿題をやってきた子もいたんだろう。
なぜ、その子たちの宿題を受け取り、ほめてやらないのだろう。
大いにほめてやるべきだ。
作文の苦手な子が、いったいどんな思いで取り組んでいたか、
その先生は何も分かっていないのだ。
なんだか涙が出そうなほど悔しくて、学校に怒鳴り込んでやろうかとさえ思った。
あとになって考えてみれば、うちの子をもっとほめてやってくれと逆上して訴える自分の姿を想像してみるに、まぁ行かなくて正解だったとは思うのだが、
私としてはそれほどの思いだったのである。

一度そんな気持ちを抱いてしまうと、いろんなことが気に入らなくなってくる。
だいたい、テーマは自由なんていうのがいけない。
自由だからこそ余計に、テーマが決められなくなるんじゃないの!
「作文」というだけで身構えてしまう子どもに、テーマを選ぶところから自分で考えるというのは、思ったほど簡単なことではない。
それに、書いたものがなんらかの形でフィードバックされるのでなければ「指導」にならないはずなのだが、提出した作文は提出したっきりで、先生のコメントどころか返却もされてはいなかった。
それでは子どもだって、せっかく作文を書いても、なんの張り合いもないではないか。

近年、入試の傾向を見ても、考える力や論述の力が重視されてきている。
作文指導も力を入れて行かないといけないのも分かるが、
子どもたちはそれぞれのバックヤードで育ち、資質も経験も異なり、とにかく個人差が大きい。
どの子の力も伸ばそうと思ったら、そこは教師としての力量が最も問われるところだと思う。
むやみやたらに書かせても、作文嫌いの子どもの苦手意識を助長するだけで、あまりいい結果を生むとは思えない。

 

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