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2014年1月

白菜の食べ方

何ということもなく一日が過ぎ、空の色と空気の質感が変わる時刻。
いつものことなのですが、今日もまた夕食のメニューに頭を悩ませていた私です。
買い物に行かなかったので、あるものを使ってできる料理はなんでしょう?
今日使ってしまいたい食材は、半端に残った豚バラ肉。
それと、農家さんからいただいた素晴らしく大きな白菜。
本当に見たこともないくらい大きくて、標準サイズの1.5~2倍はありそうです。
昨日は豚バラ肉とこの白菜にネギなどのお野菜やキノコをいれて鍋にしたのですが、白菜はたった3枚で十分な量でした。
この白菜を使って、なにか子供たちも喜ぶメニューってないかしら~?

頭の中のデータベースを探ってもなにも出てこないとき、役に立つのはクックパッド!
早速スマホで検索します。
トップ画面には本日のおすすめレシピ。
なになに?
白菜のチーズクリームシチューですと?
これぞ私の求めていたもの!
材料もちょうどそろっています。
ベーコンを使うようになっていますが、豚バラで代用できそう(^^)v
しかも作り方もかんた~ん♪
そんなわけで、今夜の主菜はあっさり決定しました。
レシピをアップしてくださったユミころさん、ありがとう♡

さっそくスマホ片手に調理開始です。
たっぷり用意した白菜も炒めて火が通るとかさが減り、水分が出てきたところにとろみづけの小麦粉がからんでいい感じです。
そこにコンソメと牛乳、それにプロセスチーズがいいアクセントになって、子どもたちも好きな味に仕上がりました。

完成~!Photo_6
(あれ? 画像、横向きですね…)


ところが、調理台には 出番待ちのコーンの缶詰。
入れるはずが忘れてました。
いつ入れるんだったんだろ?(^^;)
ま、いっかーというわけで、最後に入れます。
今度こそ出来上がりです。

じゃ~ん♪

Photo_7
(今度も横向き^^;
 直りません…
 顔を横にしてご覧く ださい <(_ _)>)

ところでこのお鍋、いつも煮込み料理に愛用しているものなのですが、先日カレーを焦がしてしまいました。
気を付けているんですけどねぇ…(-_-;)
作るときは焦がさないんです。
意識がカレーに集中しているから、忘れることはないんです。
危ないのは温めなおしのとき。
火にかけてちょっと他のことに気を取られていると… (゚Д゚;)はっ!てなことに。
久々にやっちゃいましたよ。

でも慌てない、慌てない。
そんなときはみなさんご存じ、重曹を使います。
お鍋に重曹と水を入れて煮立て、火を止めてそのまま冷めるまでしばらく置きます。
焦げてこびりついたカレーも、きれいに落とせますよ!(^_-)-☆
今回もその方法で、お鍋を復活させました。
重曹水を煮立てたら真っ黒になってちょっとすごかったですが、少しこするだけでつるつるピカピカの金属面がよみがえりました。
楽なもんです♪
そんなこと知らなかった昔は、躍起になってゴシゴシガリガリ、金属たわしで磨いていました。
義母がまだ台所に立っていたころは、しょっちゅうお鍋を焦がしてくれたもので…(;^ω^)
焦がすのは義母。
洗うのは私。
つらい思い出です…(笑)

朝ドラ『ごちそうさん』で、「料理は科学だ」 とか、「台所は実験室」 とか言ってましたけど、本当ですね。
知識を持つことは生活を豊かに明るくしてくれます♪
カレーが焦げたなんていうことはなかったことにして、今日もおいしいお料理がつくれました。

さて、まだまだ減らない巨大白菜、明日はなにしていただこうかしら~?

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吸い寄せられるような偶然を運命と呼ぶのだと思う

それは思いがけない出来事であった。
主人のおともで訪れた病院で、ばったり友人に出会ったのだ。
たくさんの人が行き交う総合病院のエントランスホールで、まるで待ち合わせでもしていたかのように自然と視線が合う。
あれ?
まさか!
6~7年ぶりの偶然の再会に、思わず顔がほころぶ。
が、待て。
ここは病院。
そういえば、彼女からもらった今年の年賀状には「闘病」の文字が記されていた。

ここ数年は、連絡をとっておらず、それこそ年賀状だけのつながりだった。
病院近くの薬局で主人の薬が出るのを待つ間のわずかな時間に、私たちはものすごい勢いで話した。
お互いに話すことがいろいろありすぎて、話題は飛ぶ飛ぶcoldsweats01
短い時間では説明が追いつかず、言葉の足りないやりとりではお互いに細かいところまでよく伝わっていなかったと思う。
それでも、できるだけたくさん、話をした。
過去の記憶の引き出しを開ければ、説明の足りなかったところはだいたい推測で補うだけの情報が入っている。
おそらくあちらも、私の大雑把な近況報告を彼女なりの理解でアレンジし、頭の中で再現していたと思う。
別れ際はとても名残惜しく、ぜひ続きをまた話そうと約束して、それぞれ帰宅の途についたのだった。

本当にとても楽しかった。
素敵なハプニングだった。
でも同時に、言葉にできないある感情が私の中に渦巻く。
彼女の笑顔が目に焼きついていた。
あの笑顔の裏に、どれほどの涙があったのだろう。
そしてよみがえる自分自身の記憶。
消灯時間を過ぎた暗い病室。
目を閉じると浮かんでくる子どもたちの顔。
不安と恐れと哀しみの入りまじった匂い。
検査のための入院だった。
いくつかの病気が疑われ、その中には命にかかわる重大な病もあった。
やがて検査の結果が出た。
特に異常は見つからなかった。
やっぱりね~smileとすぐにまたいつもの調子に戻った私。
だけど、彼女の場合は見つかったのね…
見つからずにいるより、見つかってよかったのだ。
見つかったから治療ができる。
現に経過もいいようだ。
「元気なのよ」と彼女は何度かつぶやいた。

生きているといろいろある。
この世に生を受けてから最期のときがやってくるまで、人は生きている。
病気になることも生きるうちだ。
その人がどんなにいい人でも、そんなことはおかまいなしに病気はやって来る。
人間は弱いから、病魔に襲われたら神様も仏様もお医者様も家族も友達も、力をかりられるものは総動員して闘う。
味方の多い人は幸せな人だ。
それでもその闘いの決着は運命に決められてしまうこともある。
なにをもってして運命というのか とか、運命は変えられるのか とか、議論の余地を残す言葉だが、今表現するのにこの言葉が一番ぴったりする。
本人の意志や努力だけでは動かせないもの。
それが運命。
あるいは偶然の重なり合い。
名医に巡りあうのも、薬や治療法が功を奏するのも、その人の運かもしれない。

大きな病気をすると、失うものがあったり、生き方が変わったりする。
それも人生のうち。
失うかわりに、得るものもきっとある。
他の人がしていない経験、新しい視点、新しい考え方。
たとえ病気をしなくても、よくもわるくも人間は変わりうる。
どんな人生を送るかは、結局その人次第なのだ。
今、自分が元気で子どもたちのそばにいられることの幸せをかみしめつつ、彼女が健康を取り戻すよう願わずにはいられない。

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ネガティブな日

義母は一生懸命、説明しようとしていました。
  ええとね、明日いつものクリニックに行くことになったの
  昨日電話したらね、お休みですって言われたのよ
  だから今日電話して、予約が取れたから、明日・・・

???
明日、受診することは分かったよ
でも・・・???
義母は執拗に、昨日はお休みだったとくり返します。
なんで?
明日の予約を今日電話でした というだけなら、すっきりわかるのに。

よくわからないよオーラをガンガン発していたら、次の義母の説明は、
  ほんとうは七日だったのよ
  予約日だったのをうっかりしちゃってね

お・・ おかーさん、七日って昨日ですよ(^_^;)
昨日はお休みじゃなかったってことですね(^_^;)
ていうか、電話が通じた時点でお休みじゃないですよね(^_^;)
    ↑後半は心の声

明日外出することは分かったので用は足りているのですが、義母との会話はいつもスッキリしません。
すべてをまるっと見通せる超能力があったら、モヤモヤしなくてすむのに などと思ってしまいます。
そのモヤモヤをいちいち明らかにしようとはしませんし、実際しても仕方ないのですが、
なんていうか、疲れます・・・
そして、今日は不安になりました。
日にちや時間の感覚がだいぶ危うくなってきているのかもしれません。
もともと、30分以上も経過している時間を「たったの1分よ!」と言い切るようないい加減なところはありましたが、今日のやりとりのあと、義母自身もカレンダーを眺めながら首をひねっておりました。

かなりざっくりとしたゆるい時間の流れの中でマイペースに生きていられると思えば、うらやましいような気もしないでもありません。
でもそれは老年期を迎えた人だけの特権であって、まだ私たちの年代でそれでは困ることがいっぱいですねcoldsweats01
やっぱりうらやましくはないです(笑)
現に、義母は同じ家にいても私たちとは違うステージで生活しています。
私が家事や雑事に追われいかに忙しく走り回っていようとも、義母は家事はおろか、鳴り響く玄関の呼び鈴や電話のベルにも、我関せずの態度を貫きます。
なぜそんなにお客様みたいにしていられるのかしらん( ̄Σ ̄;)ブー

そうやってふだん家の中でお客様をやっているのであまり目立たないのですが、義母は実務的なことはほとんどできなくなってきています。
逆にできなくなっているのを自覚するので、よけいお客様のポジションにしがみついて、自分のプライドを保っているのかもしれません。
義母を見ていると、自分自身の年の取り方についていろいろ考えさせられます。
その意味ではありがたいですが、現状や近い将来に目を向けると、とうていありがたいとは言えない心境です。
私は、あとどれくらい賢くて慈悲深く、強い人間にならなくてはいけないのでしょうか。
そんなふうになっていけるのでしょうかthink

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年賀状

いろいろあった2013年も過ぎ去り、新しい年がやってきました。
お正月の楽しみの一つは年賀状。
親戚や友人たちからの葉書きは、慌しく新年に突入する私の心を和ませ、しばし時を忘れさせてくれます。
近況を伝えるほんの一行の添え書きが、途絶えがちになっているお付き合いの距離をぐんと引き戻してくれるような気がして、とても嬉しく感じられます。

年賀状離れが進んでいる昨今、年頭の挨拶は葉書きを使わずにメールでするという人も増えているようですが、私はやっぱり葉書きが好きです。
それこそ、年賀状以外では手紙を書いて出すということもほとんどなくなってしまいました。
メールという便利なツールのおかげで、伝えたい用件を手軽にかつ迅速に、しかもお金もかけずに直接相手に届けることができます。
でも、年賀状だけは別です。
ちゃんと一枚一枚書きたいし、もらいたいのです。

書くといっても、パソコンで作った図案を印刷したものに一言添え書きするのと、あとは宛名書きだけなんですけれど、これが押し詰まった年末には、非常に苦しい作業になっている現実もあります(^_^;)
一気にだーっと書き上げて、なんとか年を越す前にポストに滑り込ませ、ギリギリセーフsign03
そして年明けにいただいた友人、知人たちのセンスのよい年賀状や、気配りの行き届いた温かなメッセージを読んでは、ちょっと反省sweat02
私も、もうちょっと余裕があったら、もう少し時間をかけて、心をこめて、書いたのに・・・
いーえ、余裕なんてものは自分で作り出すもの。
言い訳ばかりしていないで、自分がちゃんとやればいいのよ!
よし、来年こそはきっと・・・shine
そう思うのは実は毎年のことなんですが、あきらめてしまわずに来年こそ成し遂げたいと思いますpaper

そんな決意も新たに、あらためて年賀状をやりとりしている面々を見返してみますと、中にはポストに出すより持って行って直接渡すほうが早いよ!と思われるご近所さんもいますが、ほとんどが今は顔を合わせることも連絡を取り合うこともなくなってしまった方々ばかり。
ふだんお付き合いしている地域の方や、子どもの学校関係の知り合いなどはかえって住所もわからず、年賀状は失礼しています。
そういえば、学校でも子ども会などの団体でも、最近は連絡先を載せた名簿というものがなくなりました。
個人情報が漏洩するのを防ぐためとはいえ、不便なこともあります。
子どもの友達のお宅に連絡を取りたくても住所も電話番号も分かりませんし、個人的に連絡先を交換していなければ年賀状も出せません。
ですから当然の結果として、我が子たちは年末に年賀状を書くという習慣がないのです。
この子たちが大人になるころには、いよいよ年賀状など出さない世の中になっているのかしら・・・sad などと、ひとり気を揉んでいる母です。

話がそれましたので、戻しますcoldsweats01
よく、疎遠になった友人との関係を「年賀状だけのつながり」などといったりしますが、もう会うこともないから とそこで年賀状を出すのもやめてしまうと、知り合いですらない無関係の人になってしまうような気がします。
だから切ってしまえない年賀状つながりの友がかなりいます。
今は年賀状だけのつながりになってしまっていても、たまにFacebookを覗いてみるだけの相手でも、それでも友達と言い切れるのは、過去の付き合いがあってのこと。
古い友人と近況を交わすのは、それはそれで楽しいことです。

そういえばずっと以前に、知り合いの一人が言っていました。
 「年賀状はしょっちゅう顔を合わせる人には出さなくていいんだよ
  環境が変わったりして会えなくなったら出せばいい」
そういうものなのかもしれません。
ふだんなにかとお世話になっている人には年賀状を出さず、お世話をしてもされてもいない人に「お世話になりました」と年賀状を出すのは矛盾といえば矛盾なのですが、
会うことができない人に、一年に一度コンタクトをとることでずっとつながっていられるという意味では、年賀状というものは大きな役割を果たしてくれていると思うのです。

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