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2011年9月

しょぼくれ母のひとりごと

自分の子は無条件にかわいい。
たいていの親はそう思っている。
その反面、子育てに悩みはつきもの。
この子はどうしてこうなんだろう・・・think
深いため息。
こみあげる怒り。
小さなきっかけから大ゲンカへと発展することだって珍しくない。

可愛さあまって憎さ百倍 とは、よく男女関係で使われる言葉だが、
親子でもあてはまることがしばしばある。
「愛情いっぱいふりそそいで育て上げてきた我が子ならきっと応えてくれるはずだ」
という親のエゴが、美しいはずの「愛情」というものの裏側でいつの間にか増大してくるのだろう。
子どもがどうやら自分の思い通りになっていかないと知ったとき、裏切られたような思いと絶望感に襲われ、心に激しい憎しみの波が巻き起こるのである。

たぶん、これが我が子でなく他人であったなら、そこまで怒り狂うことはないと思う。
遺伝子レベルに組み込まれた親と子のつながりがもたらす宿命なのであろうか。

ふとしたときに子どもを見て自分に似ていると思う。
それは外見のちょっとした特徴であったり、しぐさであったり、性格上の長所や短所でもあったりする。
自分の子が特別な存在なのは、結局自分にどこか似ているからなのではないかしら?
そうなると、子どもへの「愛」は自己愛、子どもへの「憎」は自己嫌悪につながることになるのか。
血を分けた子どもはまさに自分自身であり、それゆえに生きものは本能的に子どもを守るのかもしれない。

男女関係は破綻すればそれっきりということが多いが、親子は違う。
「愛」から「憎」に転じても、また「憎」から「愛」にたやすく転じるのである。
少々のケンカなら、時という便利な道具が負の感情をきれいさっぱり洗い流ししてくれる。
売り言葉に買い言葉で激しくののしり合ったことも、水に流れてしまうのである。
まれに、後々まで尾を引くこともあるが、そのようなケースはそれこそ「可愛さありあまって憎さが何千倍」という場合だろう。
甚だ厄介ではあるが、そこまでこじれてなおこだわり続ける理由は、親にも子にも心の深い部分に理解されたいという強い思いがあるからだと思う。

平凡な日常も連続するうち、さまざまな事件が起こる。
子育てが壁にぶち当たることもしょっちゅうだ。
行き詰まったら原点に返ろうflair
子どもの幸せが自分の幸せshine
かわいい子には旅をさせよshine

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