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2009年4月

なるほどな理屈

4才の息子は、元気いっぱい。
布団の上でなりきり怪獣バトルをするのが大好きだ。
「おかあさ~ん、見て見てェ!おふとん、ぐちゃぐちゃだよぉ!」
と、息をはずませて得意げに話す。
布団の上が楽しいのはわかるが、せっかくたたんだ布団をめちゃくちゃにされるのはいささか困る。
もしどこか破けたりしたら一大事だ。
「ああー!もうっ… 布団で遊んじゃいけないって何度言ったらわかるの!!」
ちょっと怒ってみせると、息子の言い草はこうだ。
「だってしょーがないだろ。かいじゅうなんだから・・・」
そうか、怪獣だもんね、言ってもわかんないよねcoldsweats01

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待たずして待つの極意

今日気づいたことがある。

今夜は主人が知人と飲みに出かけているのだが、こんなときいつも私はイライラしながら遅い帰りを待つ。
「早めに帰るから」と、そう言って出かけるが、いったん出かけるとなかなかそうはいかないのが常である。
早く帰るって言ったのはウソだったのね!
いったい今、何時だと思ってるの!!
ようやく帰った主人に怒りをぶつける。
ぶつけられた方も不機嫌になる。
夫婦げんか。
悪循環にはまっていく。

ところが今日はイライラしていない。
それどころかウキウキnotesしているくらいだ。
主人が帰るまでに、ブログでも更新しようかなnoteなどと考えていたせいだと思う。
別にブログじゃなくてもいい。
見たかったDVDを今日こそ観ようとか、こっそり買ったゲームソフトを堪能しようなどというのでもいい。
せっせと片づけものを終わらせ、子どもたちを寝かせ、さぁさぁ楽しいひとりの時間heart02

よく、定年退職をむかえた夫婦で、全く無趣味なダンナさまをもてあます奥さまの話などを耳にするが、人間、自分の楽しみをもつということは本当に大切なことなのだと思う。
退屈していると周りが気になる。
気になって干渉する。
それが過ぎると嫌がられる。
ところが、自分がやりたいことをやっていれば、楽しい。満たされる。
そうすれば、自然、周りの人にも寛大になれるし、優しくもできる。
優しくされればその人もうれしくなり、さらにハッピー!
お互いの関係もさらによくなる。

待っているからイライラするのだということに気づくことができた今夜は、この待たずして待つの極意を手に入れ、最強の自分に生まれ変わったのであ~るhappy02

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三度目の真実

よく昔から、「二度あることは三度ある」という。
また一方で、「三度目の正直」という言葉がある。
日本人ならだれでも知っているこの二つの言葉は、正反対の結果を表わす。
このことについて、少し考えてみたい。

共通するのは、どちらの場合も二度失敗しているという状況である。
二度やって、二度とも失敗する状況というのは、確率的に起こりやすい状況なのだろう。
その場合、次にとる行動の選択肢としてまず思い浮かぶのは、
《二度もダメだったのだから、どうせ次もダメだろう》とあきらめてしまうこと。
つまりは、「二度あることは三度」。
三回目も失敗する可能性は大きいとの予測から、ネガティブになってしまうのだ。
長い人生、あきらめも肝心…とわりきってしまえばそこまでの話だ。
しかし、そうはいってもかんたんにあきらめがつかないことがある。
《二度も失敗したけど、ひょっとして次はうまくいくかもしれない》
この、ひょっとして…という希望が、「三度目の正直」の実体なのではないかと思う。

結局、やりたいことはやめられない。
自分の思いの強さが、三度目のチャレンジを決定する。
そして、三度目のチャレンジが実を結ばなかったとしても、四度目・五度目の正直をねらうことになっていくのである。
その際にも、頭の片隅で、《二度あることは三度も四度もあるにちがいない。ダメでもともと!》と、失敗したときのダメージを最小限にくい止め、自分を励ます方法を我々はちゃ~んと心得ている。

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おなかのへるうた

私が台所で片づけものをしていると、下の息子がおもむろに歌いだす。

  どうしておなかがへるのかな♪

  おやつをたべないとへるのかな♪

この子が生まれてからというもの日々なにかと忙しく、あまり歌などうたってやらなかった息子であるが、幼稚園に通うようになってからいろいろ歌を覚えてくる。

  い~くらたべてもへるもんな~♪

  かあちゃん♪  かあちゃん♪

  おなかとせなかが くっつくぞ♪

そううたいながら、ちょうど流し台の下の収納棚にしゃがみこんでいた私の背中におぶさるように抱きついてきた。

  「ほらぁ、くっついたよ!」 と、無邪気に笑う。

おなかとせなかって、そうじゃないでしょ?と言いかけて、やめる。

そういう勘違いも楽しいかもねhappy01

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ちいさな子どもにもおお~きな魂

「おとうさんとお風呂にはいろう!」
いくら誘っても彼はうなずかない。
「今日は外遊びしたから、おふろ入った方がいいよ」
私も口添えするが、ガンとして首を横にふる。
4歳の私の次男である。
「どうして入りたくないの?」
耳元で聞くと、次男もささやき声で返す。
「にいちゃんがボクにいいものもってきてくれるから」
そういえばさっき、長男は「待ってろよ!」と言い残し、何かをとりに自室に向かったのを思い出した。
あー、にいちゃんを待ってるのか。
それでわけはわかったが、いくら待っても一向に長男は現れない。
「にいちゃん遅いね。見つからなくて探してるのかな。じゃあ、おかあさんがにいちゃんに、お風呂のあとで見せてねって言っといてあげるから、先にお風呂はいっといで!」
そういうと次男は、安心したようにニッコリ笑って浴室へ。

やれやれ…と、私は自分のしごとに戻ったが、内心なんともいえない思いに打たれた。
まだ小さいと思っていた次男だが、いつのまにか成長していたんだなぁ… という、うれしいようなちょっと淋しいような感じである。
お風呂に入らないとがんばっていた次男の、強い光を放つ瞳や固く結んだくちびるには、《たとえおとうさんおかあさんを敵に回しても、ボクはにいちゃんをまつのだ!にいちゃんはボクのために取りに行ってくれているのだから!!》という確固たる意志がこめられているように見えたのだ。
それは、だれしもが思春期に感じる、自分を支配し管理しようとする大人たちへの反発とそれに付随する仲間との結託という構図と重なる。
親の言うことがどんなに正しくても(正しいことを彼自身わかっている)、それでもにいちゃんとの約束を果たしたかったのだろう。
親よりもにいちゃん(=仲間)との関係を重視したといっていい。
これは、赤ちゃん期からの完全なる脱皮といえるのではないか。

そうはいっても、まだまだ幼い次男くん。
「は~い!」と素直に言うことを聞いてくれるとありがたい。
ちょっとはおかあさんの立場も考えてよねーcoldsweats01

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幼児の多彩な音声表現の可能性について

今日も息子のひとり遊びはつづく。
「ズキュ~ン!」「シュhhhh~ッ!!」「デュphン!」「ジュワ~ッ!」
さまざまな擬音語を駆使してウルトラマンや怪獣をあやつる様は、まるでテレビ番組のワンシーンさながらである。
カタカナで表現しきれない、実に複雑な効果音の再現を聞いていると、ただただ驚き感心するばかり…
これって、純粋に自分の耳からインプットされた情報が脳の中で処理され、音声として口から出力されているんだなあ、人間の脳ってすごいなあ!

よく語学教育において幼児期が重要だと言われる。
子供が小さいうちに外国語にふれることで、聞き取る能力が飛躍的に伸びるという。
まさしくそれは真実なのだと思う。
「ギャオオ~ン!」と雄叫びをあげている息子を見て、ウルトラマンのDVDではなく、英会話教材を与えていたら… と少しだけ後悔の念が頭をかすめる今日この頃である。
今からでも間に合うかな…???

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今さらですが…

お気に入りのウルトラマンのDVDを見ている息子のそばを私が通りかかるたびに、
「あのね、これはね… 」と、息子は出てくる怪獣やストーリーについて、いろいろ説明してくれる。
そのたびに私は、「もう何度も見たから知ってるよ~」と言いたくなるのをぐっとこらえ、
「ふん、ふん」「ほぉ~!」とまるで初めて聞くかのように聞いてやらねばならない。

何度目かに息子の近くを通った時に、彼は、
「ねー、このあとジケンが起きるからさぁ、おかあさんもどこにも行かないでここで見ててよ!」と私を引き止めた。
何度もいっしょに見たDVDであるが、それでももう一度、いっしょに見て、いっしょに感じたい。
つまり、同じ体験を通じて、わかり合いたいのである。

こんなことを繰り返して、親子のきずなというものは深まっていくのだろう。
そしてやがて息子は、同じようにして他人ともつながりを持つようになるのだろう。
誰かにわかってもらいたい、認められたいという欲求は、大人も子どももない。
他者への共感という人間関係の基本を、今あらためて幼い息子から教わったような気がする。

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やる気スイッチ

とある進学塾だか予備校のCMで、
キミにもきっとある やる気スイッチ
という、たしかそんなフレーズを聞いた。
そんなスイッチが本当にあったらいいのに…と思う。

4歳の息子は、夕食のおかずの肉じゃがを
「食べない」と言い張った。
そこで、「ええ~っ!?でもこれ、ポテトだよ」というと、
「え?じゃあボクの好きなやつだ!」と、
俄然、やる気モードに入ってしまった。
呼び名が、ジャガイモからポテトに変わっただけである。
幼いだけに単純なやる気スイッチで親としては助かる。

やっかいなのは、自分にやる気を出させたいときだ。
CMでは背中にあるスイッチを見つけて、塾の先生らしき人がポチッと押すのだが、
もし自分で押せる場所にこのスイッチがあったなら、日常生活がなんと円滑に進んでいくことだろう!
冗談はさておいて、私はがんばった自分にがんばった分だけのごほうびをあげることにしている。
ごほうびは自分で選べるだけに、かなり有効なスイッチとなっている。えへへ…bleah

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人生にまつわる分数・小数の考察

子どものころ不思議に思っていた。
1÷3の答え。0.33333… もしくは3分の1が正解。
小数では終わりのない数字の連続となるその数値を、分数はいとも簡潔に表してしまう。
違いはそれだけではない。それぞれを3倍してみたとき、それはより明らかになる。
3分の1に3をかけると1に戻るが、0.33333… に3をかけると0.99999… となり、1には戻らないのである。
0.99999… という数値は限りなく1に近いが、完全な1ではない。
同じでないものをイコールでむすんでしまうようなことが、数の学問において許されるのだろうか。
            *
最近になって思う。
人生においてもこのようなことがあてはまるのではないか。
人間の気持ちはかんたんに割り切れるものではない。
頭では分かっているのに、どこか心にひっかかる…ということはよくある。
「竹を割ったような性格」などという言葉があるが、そういう人は分数型人間といえるのかもしれない。
しかし、完全な分数型人間はいない。
感情というものはどこか理屈を超えた生き物であると私は思う。
感情のない人間がいないように、完全な分数型人間もまたいないのである。
なにかが起こる。その出来事を境に、前の自分と後の自分には微妙な誤差が生じている。
それでも、その誤差は大きな人生の流れにいつしか取り込まれ、まあそんなこともあるかとやがて分数に変換されていったりする。
          *
かくいう私も典型的な小数型指向の人間だ。
分数にあこがれつつも、根っからの小数型人間であると自覚している今日この頃である。
願わくば、分数と小数を使い分ける術を習得したいものである。 

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ブログ始めました

くよくよしたり、笑いとばしたり

生きていると気持ちがゆれる

晴れた日も雨の日も自分らしくありたい

そんな私のひとりごとです

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