いやなやつ ~The harmful teacher ~

人間関係にもいろいろあるが、子どもを通しての人間関係というのはまた独特な煩雑さをはらんでいる。
親の人間関係が、直接または間接に、子どもの人間関係に影響を及ぼすことがあるからである。
いわゆるママ友間のトラブルというのもよく耳にするところであるが、幸い私はそういったものに巻き込まれることもなく、風通しのいい環境でこれまで過ごしてきた。
子どもの年齢が上がるにつれ親子関係も変化し、だんだん子どもがらみの付き合いから親は解放されていく。
それは少しばかり寂しいことではあるものの、ほっとするところもある。
ところが、そんな私に予測もしなかったトラブルが降りかかった。
下の息子も中学生になった今ごろになって現れた非常に厄介なその相手は、なんと子どもの学校の先生だった。

私だって一通りの常識とか良識とかいうものを持ち合わせた人間と自負している。
わが子が学校でお世話になっている先生であるならば、どの先生にもそれなりの礼を以て接してきた。
時にはそのやり方に多少の異論があったとしても、それぞれの先生の考え方を理解するよう努めてもきた。
私自身、若いころに教員の世界を覗いた経験があり、教員の立場で多くの子どもたちを指導する苦労はわかっているつもりだ。
しかし、どうにも歩み寄ることのできないゆゆしき事態がわが子の周辺で起きていることを知ってから、学校というものに対する私の信頼は強い衝撃とともに打ち砕かれたのだった。

彼が裏表のある人間であることに、早くから気が付いてはいた。
もちろん、普段の様子をべったり張り付いて見ていたわけではないけれども、ある程度の時間があれば一人の人間の人となりというのはおのずと伝わってくるものだ。
表面的には調子がよくても、言葉に実がないこと、言動に矛盾があること、ふとしたときの反応や表情などにも、その人の本性はよく現れ出ていた。
いつもの自信に満ちた態度に反して、実際の指導力に欠けていることなどは、ちょっと見ればすぐわかる。
子どもたちの信頼を得ていないことからも、それは明らかだ。
一般に先生とは敬うべき存在であるが、それはその人が先生だから敬うのではなく、その先生が尊敬できる人間だから敬うのだ。
健気にも子どもたちは彼を先生と呼んだ。
しかし、少なくとも今の私は、彼を先生などと呼びたくはない。
学校で子どもたちを教え導く立場の者としてふさわしいとは言い難い人間が、先生などと呼ばれていい気になっていることに、憤りさえ感じる。
子どもの学校の先生をしているからと言って、親である私は彼の生徒ではないのだから、そう呼ばなければならない理由もないのだ。
役職名で呼ぶというのなら、○○教諭と呼ぶのが正しい。

子どもの人権や学ぶ権利は、侵害されてはならない。
学校でのいじめや体罰が社会で大きく取り上げられ、決して軽んじてはならない問題とされている。
そうした問題の防止や対策への取り組みについて、学校現場へも厳重に申し渡しがされているはずである。
そんな時代にあっても、本人に非のないことでいつまでも嫌味を言い続け、一人をじーっと睨みつけたかと思えば、みんなの前で無視したり、あるいは恥をかかせて嗤ったりと心無い行動をくり返し、又そのときの気分によって暴言を吐き散らすのは当たり前、気に入らない生徒には能力に見合った課題すら与えず、更には揚げ足を取ったような理由で罰を与える というようなことをしてはほくそ笑んでいるような教員がいるのである。
殴る蹴るなどの身体を傷つける行為はせず、本人としては体罰に当たらないギリギリセーフのところでやっているつもりだろうが、とんでもない!
これは教員の立場を利用したパワーハラスメントであって、完全なアウトである。

平成25年5月に、文科省は運動部活動の在り方に関する調査研究報告書をまとめた。
その中には、部活動での指導のガイドラインが含まれ、体罰等の許されない指導と考えられるものの例が明記されている。(*)
それによれば、人格を否定する発言や言葉や態度による脅しも体罰同様、適切な指導とは認められない。
このガイドラインをもとに、各地の教育委員会が独自のガイドラインを作成する動きも活発で、暴言を処分対象とする自治体も増加している。

Photo_2             *「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書」より

また、同年に成立、施行されたいじめ防止対策推進法は、児童生徒間のいじめについて規定したものだが、そこには教員によるいじめという観点は存在しない。
教員とは本来、生徒をいじめるはずのない人間であり、パワハラ教師などというものは常識的にはまったく論外の、あり得ないものだ。
つまり、教員によるいじめや虐待は生徒間のいじめ以上に悪質と言えるし、また、信用失墜行為に該当することから地方公務員法33条の規定にも反する。
子どもの人格を否定し、尊厳を傷つけ、活動する権利をも奪うパワハラ教師を私は絶対に許すことはできない。

学校というのは非常に閉鎖的な場で、学校内で起きたことは当事者以外には見えにくい。
適当に言い繕っておけばバレないとでも思っているのだろうが、事実がある以上、言い逃れなどできはしない。
彼は完全に子どもを見くびっているようだが、中学生だってバカではないのだ。
あるいは、自分は子どもたちに崇拝されているのでなにをしてもいいのだと病的な勘違いをしているのかもしれないが、子どもたちが逆らえないのをいいことに、指導という名目で不当ないやがらせをするなどということは、決してあってはならないのだ。
そもそも学校というところは教員のための場所ではなく、子どものための場所なのである。

私も教職員として数年間学校に身をおき、いくつかの学校現場を内部から見てきた。
教員にもいろいろいて、全員が人格者ではないことも知っている。
学校教育に夢のような理想を思い描いているわけでもない。
しかし、職業倫理に照らして、いや、それ以前に人間として、やって良いことと悪いことはある。
年度末、私はひそかに決意していた。
これ以上、黙って見ていることはできないと思った。
じっとやり過ごせばあと二年でわが子は中学を卒業する。
しかし、彼はその後もずっと、退職しない限り、今の仕事を続けていくのだ。
おそろしいことだと思った。
なにか重大なことが起きてからでは遅すぎる。
いや、外部の者の目にも見えるようなはっきりした出来事だけでなく、彼に関わった子どもたち一人一人の心にどれほどの影響が出るのかということは、それこそ測り知れないものがある。
闘わなくては。
しかし、彼も保身のためには巧みに立ち回るだろう。
私が怒って学校や教育委員会に怒鳴り込むことは簡単だが、下手に動いて仕損じれば、おそらくその反動は私ではなく子どもに向けられるだろう。
正攻法ではだめだ。
ここは慎重に事を運ぶ必要がある。
なにか方法を考えなければ。

そう思っていた矢先、年度がかわり、問題の教員は他校に異動になった。
私の目の前から諸悪の根源は消え失せた。
しかし、今もほかの場所で、彼は先生と呼ばれている。
表向きの笑顔を振りまき、「いじめはよくないぞ」ともっともらしく嘯く彼を思い浮かべてみる。
いじめはなくならない。
哀しいことだが、そう思う。
文科省がどれほど立派な理想論を掲げ、法や制度が整備されても、彼のような教員がいる限り、また、彼のような教員を容認してしまう環境がある限り、パワハラはなくならない。
そして、そんな腐った教育現場から、いじめを撲滅なんてできるわけない。

今、学校は大きな転機を迎えている。
教員の働き方改革の動きに加え、つい最近もスポーツ庁から部活動のあり方についての指針も示され、様々な面で話題にされることも多い。
そんな時代であるからこそ、学校教育本来の意義を見つめ直し、是非とも教員の資質向上に目を向けていただきたい。
人が人を育てるのである。

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いろんな先生

「伊東先生は、いい先生だった」と、しみじみ次男は言う。
伊東先生は次男の小学校の時の先生で、六年間のうちの三年間、担任をしてくださった。
まじめでとても熱心な先生と定評があり、保護者の間でも人気があったが、
そのあまりに徹底した指導は少々堅苦しくもあり、そんな伊東先生を当時の次男は、「厳しすぎ」「めんどくさい」「つまらない」と、さんざん煙たがっていた。
まぁ、確かに、堅物の先生というのは、小学生にとってはあそびが少なく、自由で楽しい雰囲気に欠けるのだろう。
三度目の受け持ちがわかったときには、私も正直なところ、次男に同情したものだった。

中学に入り、子どもにとって大きく変わることの一つは、多くの先生と同時に関わりを持つことだ。
校長先生や教頭先生から学級担任の先生、学年の先生、各教科担当の先生、部活の顧問の先生、委員会の先生・・・
一口に先生といっても、いろんな個性の先生がいる。
新入生が入学するたび、先生の方も初めて会う子どもたちを把握するために様々な努力をなさると思うが、
子どもの方だっていろいろ戸惑うのだ。
それぞれの考えを持った先生がたのそれぞれのやり方をのみ込み、自分なりに順応していかなくてはならない。
日々起こる新しい出来事の中で、子どもたちはそれぞれの目線で、それぞれの人を「見る」。
思春期の子どもの人を見る目というのは容赦なく鋭く、多感な心は多くのことを感じ取る。

新しい先生たちと出会って一年が経ち、次男の中にもそれぞれの先生を形容する言葉が増えてきた。
先生という名の未知の大人たちを中学生なりに理解し、自分の世界に位置付けたということだ。
いつも温かい言葉かけで応援してくれる先生。
子どものいいところを見つけて、認めてくれる先生。
厳しいことを言うし、頭ごなしに叱られることもあるが、いつもこちらを向いてくれている先生。
あまり頼りにはならないけど、とにかく優しい先生。
問いかけるだけで、答えを教えてくれない先生。
二面性があり、態度がころころ変わる先生。
お気に入りの子どもをひいきする先生。
ちょっと意地の悪い先生。
独自のキャラクターを強く押し出してくるが、どこか憎めない先生。
次男から、先生の話を聞くのはけっこう面白い。
保護者には見えてこない一面も、子どもたちは逃すことなく見ているのだ。
一人一人の先生のいいところも、また、そうでないところも。

人間関係というものについて、特に大人との関係について、子どもは正直だ。
信頼できる人かどうか嗅ぎ分け、尊敬できる先生には従うし、それに値しないと判断した先生には反発する。
次男もこの一年、目まぐるしい日常の中で何人もの教師に接し、その感触を確かめながら過ごしてきた。
先生たちとの関わりの中には良いこともあったし、予想以上の良くないこともあった。
これが中学というところなんだと、最近では子どもなりの割り切った考えに至ったようではある。
その次男が、先日ふいに言ったのだ。
「伊東先生はほんとうにスゴイ先生だった。どんなときも正しい人だった。」
その言葉を聞いたとき、次男がこの一年でどれほど成長したか、私ははっきりと見て取った。
「それを聞いたら、先生、喜ぶね。今度、会いに行ったら?」
やだよ と言いつつも、まんざらでもない様子の次男。
嬉しいのは伊東先生以上に、この母なんだけどね、今はそれを言わないでおこうと思う。

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年の初めの運試し

昨年秋から家族で集めていたものがある。
それは、スターウォーズのチョコエッグである。
チョコエッグというのは、卵の形のチョコの中にカプセルが仕込まれている食玩で、カプセルの中身は動物のフィギュアだったり、ディズニーのキャラクターだったり、その折々でいろんなシリーズがこれまで販売されてきた。
この秋冬は、そのスターウォーズバージョンが映画の公開に先駆けて発売されたのだった。

スーパーやコンビニに行くたびに、家族の銘々がこのチョコエッグを一つ、二つと買いためて、シークレット1種を含む全14種のうち、13種が揃うまでは快調だった。
あと1種、なかなか手に入らなかったのが、C-3PO。
スターウォーズではおなじみのキャラである。
これは絶対に外せない。

稀少な存在のシークレットですら、意外にすんなり入手できた。
それなのに、なぜかわが家はC-3POには縁がなく、
何度買っても出て来てくれない。
そうこうするうちに、このシリーズのチョコエッグはだんだん店頭からなくなり、もう買うこともできなくなっていた。

残念だったね という会話を交わしていたのは先月半ば、映画の新作が封切りされた頃だったろうか。
年が明けて、正月二日の夕方。
食料品の買い出しに出かけた私は、行った先の店で思いがけずこのスターウォーズ版チョコエッグを見つけたのだ。
よし、新しい年の運試し!とばかりに、3個購入。
これで出なかったら、本当にあきらめようと誓う。

家に持ち帰り、三つのチョコエッグをテーブルに並べる。
まず次男が一つを開け、器用にチョコを手で割って食べ始める。
お楽しみはチョコを完食してからである。
小さなチョコのかけらを落とさないように、慎重な面持ちですべて食べ終えると、いよいよカプセルを開ける番である。
緊張が高まる。
カプセルを持った両手の指先に力を入れてひねるようにすると、
中から現れたのはBB-8だった。
BB-8は好きだけど、残念!

次のチャレンジは長男。
こちらも慣れた手つきでチョコを割ると、豪快にすべて口に詰め込む。
もぐもぐしながらカプセルをオープン! 
「あ、オレ、天才かも」とこちらに見せたカプセルの中身は
念願のC-3PO、それだった。
やっと出たー!!
ひとしきり盛り上がる。

それでもうシリーズはコンプリートできたので、
最後の一つはなんだっていいのだが、せっかくだから開けちゃおうというわけで、わたくし自ら開けてみた。
ところが慣れないものでチョコがうまく割れず、次男に手伝ってもらいながらなんとかチョコを食べるという美しい親子愛。
さてそこで、取り出したるカプセルを「えいやっ」と開けてみますれば!
見えてきたのは金色のあたま。
また出た!C-3PO~!!happy02
なんと、あれほど出なかったC-3POが、その日2体も出たのである。

なにやら、今年はひどく幸先のいいわが家である。

Dsc_0126
       *ちなみに、前列一番右がシークレット。ルークでした。  

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ピンクちゃん

いつもはパパにべったりのナノコが

私のところに来るのは、

「ピンクちゃん、取って!」

ていうときだけ。

ピンクちゃんはこれ↓

In


寒がりのママとナノコの

唯一分かり合えるところ。

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顔が命ではないけれど

最近ひどく驚いたことに、自分の顔のことがある。
顔と言っても、えー!?私ってこんなにブスだったの?とかっていう話ではない。
さすがに半世紀近く生きてきて、今さらそれはない。
こんなとこにシミが!シワが!っていうのも既に強く自覚していることで、悲しくはあるが今驚くことではない。
では何なのかというと、顔のゆがみである。

先日、免許証の更新のために、証明写真を撮影したときのこと。
スピード写真のブースに入り、指示に従って顔の位置など合わせたら、まず一枚目の撮影。
撮れた画像の確認画面が現れ、OKかやり直しかの選択を求められる。
まぁ、撮りながらも前方のミラーでチェックしていたし、そこそこまぁまぁには撮れていたはず。
しかし、目の前に表示された画像の自分を見て、あれ?と思う。
なんか違う。
どこが違うかとよく見ると、まず左右が逆である。
どうしてそういうことになるのか、理屈を考えると頭の中が混乱してくるのだけれど、とにかく!
事実として、鏡で見る自分と写真の自分は左右が逆なのである。
あぁ、それで違和感を持ったのか とそこで納得してしまいたかったが、
それだけではない何かが私の目に訴えかける。
しばらく自分の画像とにらみ合った私はようやく気付く。
口が曲がっているのだ。

おかしいな。普通にしていたはずなのに。
やり直しのボタンを押してから、私は前方のミラーを注視する。
両方の口角を「い~」と引き上げ、笑った口を作ってみて愕然とした。
左の口角は上がるのに、右の口角が上がらないのだ。
なにこれ?
私、どうしちゃったの!!

順番を待つ人がいないのをいいことに、
カーテンに仕切られた個室の中で、一人、躍起になって表情を作ろうとする私。
初めはまるで耳か鼻を動かそうとしているかのような感覚だったが、
右の頬に神経を集中して動かすうちに動かし方を思い出し、
なんとか左右対称な顔の撮影に成功することができたのだった。

しかし、ことは深刻である。
写真が一回撮れればいいという話ではない。
毎日鏡で見ているはずの自分の顔が、知らないうちに変わっているなんて!
いつからなんだろう。
本当に気づかなかった。
お肌の状態の変化には細心の注意を払っていたのに、口が曲がっているなんて少しも知らなかった。

帰宅してからネットで調べてみたところ、
顔というものは、普段のちょっとした生活習慣で変わってくることがあるらしい。
それは例えば、ものを食べるときに左右のどちらかばかりで嚙む癖であったり、頬杖をつくことであったり、就寝時にいつも同じ側を下にして横向きで寝ることだったり。
さらには、脚を組むことや、片方の足に体重をかけて立つこと、左右どちらか決まった方にいつも荷物を持つことなどによって生じた体のゆがみが顔のゆがみにもつながるんだそうだ。
言われてみれば、私にも思い当ることはいろいろある。

そのことを知って以来、私はゆがみに敏感になった。
立ち方、座り方から食べ方にも気を配るようになった。
寝方だけはどうしても仰向け寝が苦手で、横向きになってしまうが、向きを変えるようには気を付けている。
鏡を見ると必ず口角の動きをチェックし、頬の筋肉のマッサージをしたり、顎の関節を動かしたりもする。
その効果が表れてか、口の左右非対称は改善されてきたと思う。

自分本来の顔を取り戻すことができて安堵したが、
気が付かずにいたら と思うとゾッとする。
もともと人間の顔が左右対称にできていないことは知っているが、
今までそうでなかったものがゆがんでくるというのは 
また別のことであり、恐怖である。
そして、そうした顔のゆがみを放置していると、頭痛や腰痛、肩こり、めまいや不眠、自律神経失調の原因にもなり得るそうで、
これからの人生を健康に過ごしたいのなら決して無視できないことだ。

顔が命とは思っていないが、やはり顔は大事である。

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ドライバーの自覚

先日、運転免許証の更新をした。
こう見えて、私、優良ドライバーである。
でも、実のところ、運転はそれほど得意ではない。
方向感覚もかなり怪しい。
だから、知らない場所へは行かないし、遠出もまずしない。
行くのはちょこっと買い物か、子どもの送迎くらいである。
言わば、市内限定ドライバー。
基本、こわいので運転に関しては慎重そのものだし、違反の匂いには極度に敏感。
自分の限界が分かっているから、それを超えて無理はしない。
自分にできることできないことが分かっているのも、
ある意味、優良ドライバーの条件ではないかと思っている。

純粋にドライブを楽しむなら専ら助手席という、
私と同類の女性は世の中にけっこう多いのではないかと思う。
しかし、今やどこに行っても、巷は車であふれている。
車は老若男女にとっての生活必需品となっている。
昨日も車で買い物に行った私は、スーパーの駐車場に車を停めた。
ロックをかけて車を離れようとしたとき、
すぐ隣の空きスペースに車が一台入ろうとしていた。
運転席の窓から後方を見ながら顔を出したのは70代くらいの女性である。
彼女はけっこうなスピードを上げて車をバックさせていたが、
その様子は、手慣れているというよりむしろ、雑な印象だった。
そして、私がそのとき思わず足を止めて見てしまったのは、
駐車スペース一台分ごとに設置されたロック板の端の制御装置と思われるボックス型のパーツに、車の後輪がすれすれで通ったからである。
もし当たったら、タイヤかホイールに傷がつく。
それでヒヤリとしたのである。
運転しているご本人は、そんなことなどまるで頓着していないようだったが、結果、ぎりぎりのところをタイヤは無事通過した。
とはいえ、車体はかなり斜めである。
切り返すわよね?前に出るとき当たらないかな?
と余計な心配をする私の予想に反して、運転者の女性はそのままエンジンを切り、車を降りた。
たとえ車が5cm曲がっていても気になる私としては、それはもう
信じられないくらいの斜めだけれど、
まぁ、車は一台分の枠の中には収まっている。
よっぽど急いでいたのだろうと思うことにした。

買い物が済んで帰ろうとしたとき、また別の車を見た。
その駐車場内で一か所だけ、壁に沿って縦列に駐車するスペースがある。
縦列駐車は苦手だが、そこしか空いていなかったとき、何度か私も停めたことがある。
やってみると、大きい車でなければ、さほど大変ではなかった。
そこへバックで中途半端に突っ込んだ状態で立ち往生している車が一台。
っていうか、その車の位置からして、後部が壁に接触していそうに見える。
運転しているのは、やはり70代とおぼしき女性。
コンパクトカーと言われる車種である。
彼女は車を降りて状況を確認し、また運転席に戻るというのを何度か繰り返していたが、どうしようとしているのか分からない。
傍目にも壁に寄りすぎている以上、いったん出るしかないと思えるが…
いったん出てからまたやり直すか、その場所に入れるのはあきらめるか。
見ているだけで怖いので、あきらめたほうがよさそうだなぁ…と思っていたら、しばらくしてその車はほかの場所に移っていった。

その年代で今も運転しているのだから、お二人ともドライバーとしての経歴は長いに違いない。
車庫入れだって、これまでに何百回、あるいは何千回もしてきたはずだ。
彼女たちを見ていて背中が寒くなるのは、そこに私自身の20年後の姿を見たように感じたからだ。
高齢になると、どうしても肉体は衰える。
若いときに比べて反応も遅くなるし、注意力や判断力も低下する。
認知症など特別な病気になっていないとしても、
運転に必要な車両感覚が鈍ってくることだってあるんだろう。
あのお二人が特別なのではない。
だれだってそうなるのだ。
決して過信はいけない。

最近になってようやく実家の父も運転をやめた。
父にしてみたら、大きな決断だったはずだ。
私は将来、少し早めにドライバーの肩書きを降りようと思う。
だれに言われなくても、多分自然とそうなると思う。
元気なうちに、車のない生活にも慣れておかなくてはならないとも思っている。

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部活動、あれやこれや

次男の成長期は肩から始まった。
そもそも、男の子の体の成長というものをよく分かっているわけでもないが、だいたいは背が伸びることから始まるものだと思っていた私である。
っていうか、それ、間違ってませんよね?

中学生になって初めての夏が過ぎたある日、
長袖Tシャツ一枚を着た次男の姿を見て、私は違和感を覚えたのだ。
なにかが今までと違っている。
次男の体のシルエット。
どこがって、ほら、この肩。
ちょっとこのシャツ、肩パット入ってないわよね?
キョトンとする次男の肩を両手で掴んで確かめるが、
正真正銘、次男の肩である。
うっそーsign03
ちょっとアナタ、いつの間に~?happy02

もしやと思い、身長を測ってみると、春から5cm伸びていた。
いよいよ待ちに待った成長期の到来である。
とは言え、もともと小柄な次男の背が5cm伸びたところで、
同じく成長期真っ只中の子どもたちに混ざってしまえば
急にその差が埋まるわけではない。
バスケの試合でどんなにがんばってジャンプしても、
背の高い子には易々とボールを奪われてしまう。
「おまえは跳ぶなー!」と先生に言われる。
「その代わり、足元に転がったボールは絶対取れ!」
確かに、すばしこい次男はルーズボールを拾うのには有利である。
だけど、「跳ぶな」はないわよねぇ…gawk

このごろ、中学の部活について思うことはいろいろある。
学校生活における部活動の位置づけも、この数年で変わってきている。
世間ではブラック部活なんていう言葉が囁かれ、
生徒だけでなく、教員にとっても過度に負担が大きい活動の仕方を
見直す動きが出てきたためだと思われる。
数年前に長男が在籍していたころに比べても、今は部活の休みも増えた。
中学の先生方は傍目にも多忙で、部活だけに時間や労力を割くわけにもいかないというのも理解できる。
ただ、それを差し引いて考えても、どうもすっきりしない思いが
今、私の心を占めている。

30年以上前の私自身の子ども時代にも、少年野球や少年サッカーはあったし、
小さいころから剣道や柔道、水泳などを習う子どもはいた。
でもそれは、数から言って、ごく少数の子どもだった。
中学で部活に入り、初めてのスポーツにチャレンジするというのは、よくあることだったように思う。
でも今や、バレーボールもバスケットも、テニスも、卓球も、
小学生のうちからやっている子がたくさんいて、
部活でレギュラーを占めるのはたいていそういう子ばかりだ。
そして、さらにうまくなりたい子は、部活の練習だけでは足りずに
外に習いに行くのも普通であるし、
そもそも学校の部活には所属せず、外部のクラブチームのみで活動する子もいる。
部活に入ってさえいれば十分だろうという古い価値観は、通用しない時代なのである。

そんな中で、次男が所属するバスケ部は、この春未経験者ばかりが入部した。
夏に三年生が引退すると、二年生はわずか二人。
初心者だろうがなんだろうが、一年生も試合に出る。
普通に考えれば、猛練習が必要な彼らである。
しかし実際は練習以前に、集合が遅い、ダラダラしている、私語が多いというふうに、だれかが何かをちゃんとやれてないといっては、連帯責任のランニングばかり。
夏まで、ろくにバスケの練習をしていなかったのである!
ペナルティのランニングなんて、疲れるだけで楽しいはずはない。
それで余計にダラダラするという悪循環。
そんな状況で試合に出たって、どうにかなるものではない。
先生からのダメ出しの嵐にも、子どもたちは混乱するだけ。
「お前ら下手すぎるって言うけど、先生が何にも教えてくれないんじゃないか!」
もっとちゃんと練習したいと次男が涙をこぼす日もあった。

中途半端なんだなぁと思う。
部活のあり方が である。
学校教育や教員の勤務全体の中での部活動のウエイトは
どんどん少なくなってきている。
部活指導にあまり手をかけていない。
その割に、先生の子どもたちに対する要求度合いが高すぎるのだ。
小学校時代にミニバスケットボールをやってきた、放っておいたって試合ができる子どもと違い、
初心者がどんなになんにもできないか、
先生は忘れているんじゃなかろうか。

それでも、入部してから半年余りが過ぎた。
次男が時々家で話す部活のエピソードは、涙あり笑いあり、
不平不満をもらしながらも、なんとかここまでがんばってきた。
さらに驚くべきは、入部当初のメンバーが誰一人欠けていないこと。
例え試合に勝てなくても、なにかそれ以上に価値あるものを
きっとあの子たちは手にすることができるだろう。
成長期の波を逃すまいと、朝に晩にザバスジュニアプロテインを
牛乳に溶かして飲んでいる次男を、
今は温かく見守るだけである。

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よしなしごと

目を閉じて、自分の中の20年前の扉を開けると
夫と出会ったころの私がいる。
今よりも太った憎たらしいほど元気な義母と、穏やかに笑う義父。
まだ現役で仕事をしている。
そこにはキジオもナノコもいなくて、
お勝手口を出たところには夫の愛犬、家の中はといえば
義父にしか懐かない気位の高いネコが我が物顔に闊歩している。
20年前はあんなに元気だった義父も犬も義父のネコも、その後みんな逝ってしまって、今はもういない。
そして今と違うのは、子どもたちの姿もないこと。
彼らはまだ生まれていない。
今では二人とも、当たり前にうちの子をやってるけど
ほんとうにあなたたち、いったいどこからやって来たのよ?
同じ問いを、目の前のキジオにも投げてみるが、
きょとんとするばかりで返事はない。
太古の昔から、すべて生き物は生まれては死ぬもの。
死ぬということも分からないが、
生まれるって、いったいなんなんだろう。
いなかったものが生み出されて実存のものとなり、独自の意識を持ち、人格を形成し、同じように生み出されてきた他者と関わり合って生きていくって、
とてつもなくすごいことなんじゃないだろうか。

もしもタイムマシンがあって、50年前の世界に行ったらと想像する。
そこには私が存在しない。
そのあと私はどうやってかこの世に生まれて来て、いろんなアレコレを通って現在に至っている。
私はどこからやって来て、どのあたりから「私」になり、
「私」として生きるだけ生きた後はどこへ行こうとしているのか。
行くところなんてあるんだろうか。

この世は仮の宿という考え方もある。
生まれ変わりを信じる人も多い。
そんなふうに考えたら、大切な人との別れが来ても自分を納得させやすいし、自分に最期が近づいても次のステージがあると思えば不安も薄らぐかもしれない。
だけど。
死んだらどうなるかなんて、今生きている人はだれも知らない。
前世やら中間生やらの記憶を語る人が現れたって、それが本当だとはだれも証明できやしない。

だいたいね、魂なんていうものは存在するの?
心の働きは脳の機能によるものなんだからね。
脳細胞やら神経に電気信号や様々な伝達物質が行き来して
巻き起こす産物なんだから。
やがて肉体は滅びるから、そうしたら魂なんてものも泡と消えてなくなるのよ。
それが科学的な根拠のある考え方ってもんなのよ と
息巻いてみたところで、たとえば「脳死は人の死か?」なんて問題を突き付けられたら、すんなりとはその理論を受け入れ難いのも確かなのである。

そこで結論。
人が生まれること死ぬことの謎は永遠に解けない。
誰にも答えは決められない。
だからこそ、どう考えようとその人の自由である!
で。
私はどうしようか。
死んでしまったらそのときは、いっそゼロになるのもいいなぁなんて、ちょっと思ったりもする。
だって、魂が死後の世界も生きるのだとしたら、きっとあとのことが気になってどうしようもなくなるもの。
死んだあとくらいは、無責任にのんびりしたい。
今のところは、ね。

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部活動始めました

日曜日。
朝一番の時間帯に部活が入っていた次男、出かけたと思ったら一時間ほどして帰ってきた。
なんでも、顧問の先生に叱られ、「帰れー!!」と怒鳴られ、帰ってきたんだそう。
何度聞いても、次男の説明では状況が今一つ分からないのだが、
集合の時間が遅い、ダラダラしている、真剣味がない、
叱られた理由は大方そんなことのようである。

おーおー、やってるなーsmile
次男が入部したのはバスケ部。
さすが運動部である。
「センパイがすごく優しい」けれど、「先生はこわい」んだそうである。
だけど。
それで帰って来ちゃってよかったわけ!?
私の時代だったら、「すみませんでした!!練習させてください!」と、そこは泣いて訴えるところだと思うのだが、現代っ子は違うようである。
「だって、帰れって言われたんだもん。だいたい、先生怒ってるのに、笑って話してるヤツがいてさー、先生余計に怒っちゃって。それで、おまえら帰れーってなって、ぼくたちなんかトバッチリだよ」
いや、そうじゃないでしょ。
遅く行ったのはアナタもでしょ。
時間を守った早目の行動は、部としての規律を維持する上でとても重要だ。
次男を見ていると、やはり認識が甘いと言わざるを得ない。
先生もたいへんだなーと思う。
こんな中身がまだ小学生の子どもたちを、一人前の運動部員に育て上げるまでに、あとどれくらい怒鳴らなければならないのだろう。
そうやって先生が、自分たちに膨大なエネルギーを注いでくれているという真実を、あの現代っ子たちはいつか気付くときが来るんだろうか。

母親目線で見る次男は、まぁ、無邪気なものである。
ボールの扱いに少し慣れたと言っては喜び、センパイと親しく口をきいたと言っては嬉しがる。
一つ二つ年上の子たちを「センパイ」なんていう慣れない呼び名で呼び、敬い慕うさまは、母の目にはとても新鮮である。
練習キツかったー とよれよれになって帰宅する姿も、母の胸にグッとくる。
初めての部活動、たくさんの戸惑いも感じているだろうが、とにかく一生懸命である。
気心の知れた仲間と顔を合わせれば、もう楽しくって仕方がない。
不真面目なのではないのだけど、とにかく楽しくって嬉しいのだ。
でも、その楽しくって嬉しいのは、運動部員らしくない。
顧問の先生の目からすれば、指導の対象になってしまう。

「学校の先生って、みんなすぐ怒りすぎるんだよ」と、次男は口を尖らせて言う。
自分たちが先生を怒らせる原因を作っている事実なんて、まるでないみたいに。
「卒業式のときだってね」と今度は小学校時代の話を持ち出す。
「ツムツムの音がするんだよ。シーンとして式が始まるのに、どこかでだれかがツムツムやってんだよ。卒業式でツムツムの音が聞こえたら、可笑しいでしょ。ふつう笑うでしょ。で、ちょっと横向いて笑ってたら、先生に怒られた。」
納得いかないって顔の次男である。
それは初めて聞いた話だったが、きっと親に連れられて来た小さな弟妹の誰かが間をもたせるためにスマホのゲームをしていたんだろうと思う。
筋から言えばゲームの音を消すべきだが、その場にいた先生にとっては児童に笑うなと言うほうが早い。
なにせ、卒業生は卒業式の主役。
みんなが注目するのだから。
ま、先生の対応も仕方なかったよねぇと思うけれども、怒られた本人としては不本意なのも分かる。
こうやって、少しずつ始まっているんだなぁ と私は思った。
なにがって、「どうせ大人は分かってくれない」っていう例のアレ。
親も先生もクソくらえっていう思春期特有の反抗期。
次男は家でも外でも、特別反抗的な子どもというわけではない。
それでも、心の内で大人たちの行動を観察し、矛盾を見つけては、不満や不信を募らせていく時期なのだ。
そんなことを考えると、本当に中学の先生ってたいへんな仕事だと思う。
部員と顧問の間の適度な距離感を保つのは、すごく難しいと思う。
どうかうまく舵取りをしていただき、ムチばかりでなく時々は飴も与えてもらって、未熟な我が子をご指導いただけたらと願う。

週が明けて月曜日。
前日一緒に帰ってしまった数人の部員といっしょに、先生に謝りに行ったそうだ。
「自分で帰れって言ったくせに、おまえら、なんで帰ったんだよ~!って言ってた」
ぽそりとつぶやく次男。
それ、先生の前で口に出さなくて正解。
先生の深い愛が、現代っ子思春期篇の彼らに届く日はそう遠くないと予感した私である。

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中間テスト

帰宅するなり次男が言う。
「友達と勉強するから、帰り遅くなるけどいい?」
人生初の定期考査の前である。
一学期の中間テストは中学生となったばかりの子どもたちが受ける洗礼。
学習の内容はもとより、これから中学校生活を送る上での重要なルールやスキルを学ばなければならない。
必要な課題をやっつけるために図書館へ行き、閉館時間までやったら近くのマクドナルドへ移動。
そこで食事をしつつ続きをやり、9時には帰ると言うけれど、
そんなんでちゃんと勉強やれるのかしら。
しかも一緒に行動するのは、まーくんという友人。
あのまーくんでしょ?
小さいころからとってもヤンチャでいたずらな。
ここしばらく、次男の口からまーくんの名前は出なかったので、
それほど親しくしていたとは知らなかったが、この春から同じクラスになったのは知っていた。
「だって、あいつさー、全然わかってないんだもん。
 ぼくは別に一人で塾の自習室だっていいんだよ。
 だけどあいつがどうしても一緒にやろうっていうからさー」
さも分かったような口ぶりで物言う次男。
ほぉー。
アンタも頼りにされることがあるんだねー
…と言いたくなるのを抑え、あらそう と曖昧に笑う私。

そこへまーくんから電話が入り、用意をしながら通話する二人。
「でさ、なにを持ってけばいいの?」と、まーくん。
訊かれた次男は、「なにって、全部だよ!」
「えー、全部って?」
「範囲表に書いてあるだろ。数学と国語と理科と・・・ 」
「あ、理科の教科書、学校に忘れた!」
「もー!持ってこれるの、全部持ってこーい!!」
二人の会話はスピーカーホンで、周囲に筒抜けである。
聞いていると、いつになく、あの頼りない次男がしっかりして見える。
つくづく、環境は人を育てるのだなぁ などと思う。
一応はひと通り、やるべきことは分かっているようで、こちらもひとまず安堵する。

「ね、マクドナルドで勉強するっていうんなら、
 うちにおいでよ。近いんだし。」
横から私が言う。
「マックで勉強させてもらえるか分からないし、
 うちに来た方が安心だよ」
なにせ、まだまだ小学生上がりの二人である。
じゃあそうするよ、マック食べたら戻ってくる と言い残し、
いそいそと出かけて行った次男だった。
やっぱりマックはどうしても外せないわけね…coldsweats01

七時すぎ。
大人だけで食卓を囲んでいると、次男がまーくんを連れて戻ってきた。
静かな客間を二人に使わせ、しばらくしてから飲み物とおやつを差し入れる。
まーくんのお母さんがいろいろ気を回して持たせて下さったので、
ありがたく頂戴したものだ。
まーくんがお母さんに電話をつないでくれたので、
「二人、すごく一生懸命やってますよー」と本人たちに聞こえるように経過報告をし、少し帰りが遅くなると思いますけど とことわって電話を切った。
なるべく邪魔しないようにと思っても、つい気になるのが親ごころである。
こっそり様子を見に行った夫が笑いながら帰ってくる。
「あの二人、いいコンビだよ。
 なんかね、あいつ、まーくんにはあんなに偉そうにしてたくせに、
 国語のワーク、試験の範囲じゃないところをやってたって
 気付いて、悶絶してた。
 結局ね、類は友を呼ぶんだよsmile
そこのとこはまーくんのほうがよく見ていて、次男が見落としていたらしい。
ちょっとはしっかりしたのかと錯覚したが、次男はやっぱり次男だった…gawk
笑えるけどね、笑い事じゃないんだよ、アナタ。

まぁ、そんなふうに過ごした試験前のこの2日間。
あっちへこっちへと場所を移さず、一つ所に腰を落ち着けたほうがムダがないのに  と思いながらも見守った。
悪ガキまーくんもちゃんといい子に育っていた。
いよいよ明日は中間テストの初日である。
次男とまーくん、二人の健闘を祈る。

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