キジオの実力

昨夜のことである。
遅い時間に帰宅した長男のために、私は食事を温めなおした。
ところが当の長男は、自分の部屋に入ったまま何をしているのか出てこない。
せっかく温めたのに、また冷めてしまうじゃないの。
近くには猫のキジオ。
キジオは我が心の友だ。
私はなんということもなく、ひとりごとのように呟く。
「ねぇキジオ、ごはんできてるよって兄ちゃんに言ってきてよ」
するとキジオはすぅーっと階段を上っていく。
え?
まさか。
いや、いくらなんでも、それはない。
キジオは二階が好きだから、ケージから出るとよく二階へ行く。
ただそれだけ。
そう思いつつ、半信半疑の期待が胸に沸き起こる。
そして数秒後。
「にゃ~お。にゃ~お。にゃ~お~。」
キジオの声。
にゃ~お、にゃ~おとはっきりとした声で鳴き続ける。
まさか、まさか、まさか!
声がするので夫が見に行くと、キジオは二階の長男の部屋のドアの前で鳴いていたんだそうである。
キジオは私の伝言を、長男に伝えてくれたのだ。
猫語ではあったけれども。

「キジオが呼びに行ったの、分かった?」
しばらくたって下りてきた長男に尋ねると、もちろん分かったとのこと。
部屋に入れてくれと鳴くキジオの訪問が、これまでにもちょいちょいあったらしい。
キジオは猫にしてどれだけのことがわかっているんだろう。
人間の言葉をどこまで理解しているんだろう。
私の想像を超える理解力を、キジオは持っているようだ。
キジオはすごい。すごいぞ。
そのうち本当に猫のキジオは、人の言葉を話すようにだってなるかもしれない。
そんな馬鹿げた幻想を、私は半ば本気で抱くのである。

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青春だもの、完全燃焼は美しい

「勝ちにはこだわらない」と顧問の先生は言う。
試合でなかなか勝利に手の届かない子どもたちへの教育的配慮でもあるかもしれない。
この春から次男の所属する中学バスケ部の顧問を引き受けてくれている彼は、優しく誠実な人柄なのだと思う。
だが、私はその言葉を聞いてモヤっとしてしまう。
勝敗にこだわらないというのは、がんばったんだからいいじゃないかってことなのだろうが、
果たして本当にがんばれたのか?
その試合は一点差で負けた。
あと1ゴールきまっていれば、あるいは相手の攻撃を封じていたら、一人一人がもっと勝ちにこだわっていたら、勝敗はひっくり返っていたかもしれない。
勝てたかもしれない試合なら、勝たせてやってほしかったと私は思う。

試合をするからには、子どもたちは単純に勝ちたいと思っている。
だれだって負けるより勝ちたい。
相手チームだってそれは同じだから、そう簡単に勝たせてはくれないが、実力が五分五分であるなら、勝つのはより本気でぶつかり、より全力を出し尽くした方である。
ディフェンスひとつとってみたって、勝たなくてもいいと思ってやるのと、なにがなんでも勝ってやると思ってやるのとでは、プレイの質が違ってくる。
勝敗をわけるのはその差なんじゃないだろうか。

試合で勝利を掴みとったときの達成感、充足感を味わえば、次の目標に向けてのモチベーションだって上がる。
もっとがんばろうと思う。
仮に、全力でぶつかっても相手がさらに上回り、結果負けることになったとしても、その負けは清々しい。
次は絶対勝ってやろうと思える。
明日からの練習にもっと気を入れて取り組もうと心に誓う。
中学の部活動とはいえ、この子たちに決定的に足りないのはその気持ちだ。
今のチームに漂っている、どうせ勝てないなんていう澱んだ雰囲気は吹き飛ばしてしまえばいい。

この春からの試合を見ていて、勝てる試合をいくつも落としてきた。
はなから実力に差があって逆立ちしたって勝てないチームも多い中、やりようによっては勝てるかもしれない相手には、勝ってこい!とベンチから送り出してやってくれないものだろうか。
きれいごとを並べる前に、チームが試合で完全燃焼できるように、気持ちを鼓舞してほしいのだ。
そうして、その結果がどう出ても、よくやったと誉めてやってほしいなぁと、蚊帳の外で人知れず母は願うのである。


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危険な夏

私はひどく驚いてしまった。
考えてみれば、それはそうなのだ。
当然のことなのだ。
先日、愛知県の小学一年生が熱射病で亡くなるという痛ましい出来事があって以来、教育現場の暑さ対策、とくに冷房設備のことが話題にされる。
たまたま見ていたテレビ番組で、ゲストのコメンテーターの女性が叫ぶ。
「教室に冷房のない学校があるなんて知らなかった!」
なにを寝ぼけたことを言っているんだろう。
一つ一つの教室にクーラーがついてるなんて、私立だけでしょ?
と、私はそのときまで本気で思っていた。
しかし、現実は違った!
寝ぼけていたのは私だった。
昨年4月の文科省の調査によれば、全国の公立小中学校の普通教室、特別教室を合わせた空調設備設置率は41.7%。
東京都の普通教室のみをみれば、実に99.9%が設置済みである。
えーっ! そうなの?
ずるい~ という言葉が口から飛び出しそうになる。
次男が通う中学は、かわいそうに、一般の教室にクーラーは一台もない。
数年前にやっとついた扇風機が、生ぬるい風を送るだけである。
校舎をどんなに強い日差しが照り付け、ねっとりと湿った不快な熱気に包まれようとも、どこにも逃げ場はない。
教室にも冷房がつけばいいのにと思い続けてはきたものの、学校とはそういうものだから仕方がないとずっとあきらめていた。
どこの学校も同じなんだと信じ切っていた。
ところが、気が付けば世の中は変わっていたのだ。
私はいったいいつの時代を生きていたんだろうという気持ちになる。

文科省は平成10年から3年に一度のペースで公立学校施設における空調設置状況を調査してきたそうである。
最新の調査が昨年、平成29年のものだ。 その報告は以下の通りである。

Photo_2
また、過去の設置状況の推移を表したグラフを見ると、ここ数年でグイグイ増加しているのがわかる。
これぞ、世の中の動きなのである。
Photo_4
因みに、都道府県別にまとめられた報告もあり、参考までに小中学校の一覧表を載せてみる。
Photo_6

都道府県別の数字を見たところで、こんなのあてにならないなぁと思うのは、同じ県の内部ですら地域によって格差が大きいという実態があるからだ。
それぞれの市区町村別の数字を見なければ、正確な状況は分からない。
結局は学校の設置者である自治体の財政状況により、必要性は感じていても、学校の空調設備にまで手が回らない厳しい現実もあるのだ。
空調の設置や維持の費用を考えると、少々国から補助金が下りたところでどうなるものでもない。
「じゃあ、あとできるのはクラウドファンディングだね」と長男などは冗談混じりに言う。
実際にそれで学校にクーラーを設置した自治体もあるらしいから、まんざら夢でもないかもしれない。
義務教育期間は全国で教育環境を統一すべきとの声もある。
資金だけのことなら、どうにかならないものなのか。
とはいえ、ない袖は振れぬという事情もわかる。

自分自身の子ども時代を思い返すと、小学校、中学校、高校まで、教室に空調設備どころか扇風機さえなかった。
夏は九月に入っても教室は暑さで蒸れ返り、だるさで息がつまった。
昨今の夏の猛暑はそれ以上である。
テレビで繰り返される「命にかかわる危険な暑さ」という言葉が決して大袈裟ではない。
毎日子どもを学校に送り出すことに、決死の覚悟が必要である。
水分補給を怠らないこと。
少しでも体調に異変を感じたら、早めに対処すること。
周囲の友達の様子にも気を配ること。
分かっているとは思っても、つい口うるさくしてしまう。
「熱中症に厳重警戒!」「激しい運動は中止しましょう」と各方面から私のスマホに通知が入るが、そんなことで部活動はなくならない。
夏休みだって、湯気が出ていそうなほど熱せられた学校へ行く。
教室にエアコンがないのだから当然、バスケ部の活動場所である体育館にだってあるわけはない。
外で活動する野球部やサッカー部、テニス部などはどうしているのだろう。
連日の猛暑で、保健室の氷も足りなくなったと次男が言っていた。
学校の先生たちだって子どもと同じ環境に身を置いて仕事をしていると思えば、信頼してお任せするしかないのだが、任せておいてほんとうに大丈夫なの!?という疑念が、むくむくと頭をもたげてくる。
自治体によっては、日中の気温が高い時間帯に活動を禁止するなど、夏休み中の部活動に制限を加えているところもあるようだが、 わが子が通う中学からは何も指示が伝わってきていない。
これまでの常識が通用しない事態であるとの認識をもって、この危険な夏を無事乗りきれるよう、どうか手段を講じていただきたい。
いつ学校に電話をしようかと、こちらは臨戦態勢である。

 

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雨を泳ぐ夢

今夜はひどく湿度が高い。
息苦しさを覚えるほどに、蒸している。
人間にもエラがあって、エラ呼吸もできるんだったら、
こんなときは楽なんだろうか? などと
バカげた考えをめぐらしていると、
ふと昔見た夢のことを思い出した。

外は雨が降っている。
今で言うゲリラ豪雨のような、バケツをひっくり返したような雨だ。
私はガラス越しに外を見ていて、そこは多分祖母の家だ。
雨がいつまでもあんまり降るので半ば呆れた気持ちになっているとき、
視界をなにかが横切っていく。
白地に朱や黒のブチが入った魚だ。
大きな金魚? いや、ニシキゴイ?
ちょっと違うな。
初めて見る知らない魚。
見渡せば、あっちには黄色がかった色の魚、こっちにはトリコロールカラーの魚…
色とりどりのたくさんの魚たちが雨の中を泳いでいる。
これだけ雨が降っていれば、水の中にいるのと同じだもんねぇ と、へんに納得してしまう私。
そこへ祖母が魚取り網を持って現れる。
「あの魚を捕ってきてちょうだい。」
網を受け取りながら、捕ってどうするの?と訊くと、祖母は言う。
「食べるのよ。」
そうか、食べるのか。
なんの疑問も抱かないのはさすが夢、
私は雨の中へ飛び込み、魚たちを追いかけて、泳ぐ。
走る必要はない。
雨の中は泳いでいれば飛べるのだ。
息だって、ちっとも苦しくない。

そんな夢を子どもの頃、何度か見た。
夢が意味するものなんてわからない。
おそらく意味なんてないのだろうが、
もしかしたら私は前世で魚か、あるいはエラをもつなにか別の生き物だったかもしれないと思う。

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いやなやつ ~The harmful teacher ~

人間関係にもいろいろあるが、子どもを通しての人間関係というのはまた独特な煩雑さをはらんでいる。
親の人間関係が、直接または間接に、子どもの人間関係に影響を及ぼすことがあるからである。
いわゆるママ友間のトラブルというのもよく耳にするところであるが、幸い私はそういったものに巻き込まれることもなく、風通しのいい環境でこれまで過ごしてきた。
子どもの年齢が上がるにつれ親子関係も変化し、だんだん子どもがらみの付き合いから親は解放されていく。
それは少しばかり寂しいことではあるものの、ほっとするところもある。
ところが、そんな私に予測もしなかったトラブルが降りかかった。
下の息子も中学生になった今ごろになって現れた非常に厄介なその相手は、なんと子どもの学校の先生だった。

私だって一通りの常識とか良識とかいうものを持ち合わせた人間と自負している。
わが子が学校でお世話になっている先生であるならば、どの先生にもそれなりの礼を以て接してきた。
時にはそのやり方に多少の異論があったとしても、それぞれの先生の考え方を理解するよう努めてもきた。
私自身、若いころに教員の世界を覗いた経験があり、教員の立場で多くの子どもたちを指導する苦労はわかっているつもりだ。
しかし、どうにも歩み寄ることのできないゆゆしき事態がわが子の周辺で起きていることを知ってから、学校というものに対する私の信頼は強い衝撃とともに打ち砕かれたのだった。

彼が裏表のある人間であることに、早くから気が付いてはいた。
もちろん、普段の様子をべったり張り付いて見ていたわけではないけれども、ある程度の時間があれば一人の人間の人となりというのはおのずと伝わってくるものだ。
表面的には調子がよくても、言葉に実がないこと、言動に矛盾があること、ふとしたときの反応や表情などにも、その人の本性はよく現れ出ていた。
いつもの自信に満ちた態度に反して、実際の指導力に欠けていることなどは、ちょっと見ればすぐわかる。
子どもたちの信頼を得ていないことからも、それは明らかだ。
一般に先生とは敬うべき存在であるが、それはその人が先生だから敬うのではなく、その先生が尊敬できる人間だから敬うのだ。
健気にも子どもたちは彼を先生と呼んだ。
しかし、少なくとも今の私は、彼を先生などと呼びたくはない。
学校で子どもたちを教え導く立場の者としてふさわしいとは言い難い人間が、先生などと呼ばれていい気になっていることに、憤りさえ感じる。
子どもの学校の先生をしているからと言って、親である私は彼の生徒ではないのだから、そう呼ばなければならない理由もないのだ。
役職名で呼ぶというのなら、○○教諭と呼ぶのが正しい。

子どもの人権や学ぶ権利は、侵害されてはならない。
学校でのいじめや体罰が社会で大きく取り上げられ、決して軽んじてはならない問題とされている。
そうした問題の防止や対策への取り組みについて、学校現場へも厳重に申し渡しがされているはずである。
そんな時代にあっても、本人に非のないことでいつまでも嫌味を言い続け、一人をじーっと睨みつけたかと思えば、みんなの前で無視したり、あるいは恥をかかせて嗤ったりと心無い行動をくり返し、又そのときの気分によって暴言を吐き散らすのは当たり前、気に入らない生徒には能力に見合った課題すら与えず、更には揚げ足を取ったような理由で罰を与える というようなことをしてはほくそ笑んでいるような教員がいるのである。
殴る蹴るなどの身体を傷つける行為はせず、本人としては体罰に当たらないギリギリセーフのところでやっているつもりだろうが、とんでもない!
これは教員の立場を利用したパワーハラスメントであって、完全なアウトである。

平成25年5月に、文科省は運動部活動の在り方に関する調査研究報告書をまとめた。
その中には、部活動での指導のガイドラインが含まれ、体罰等の許されない指導と考えられるものの例が明記されている。(*)
それによれば、人格を否定する発言や言葉や態度による脅しも体罰同様、適切な指導とは認められない。
このガイドラインをもとに、各地の教育委員会が独自のガイドラインを作成する動きも活発で、暴言を処分対象とする自治体も増加している。

Photo_2             *「運動部活動の在り方に関する調査研究報告書」より

また、同年に成立、施行されたいじめ防止対策推進法は、児童生徒間のいじめについて規定したものだが、そこには教員によるいじめという観点は存在しない。
教員とは本来、生徒をいじめるはずのない人間であり、パワハラ教師などというものは常識的にはまったく論外の、あり得ないものだ。
つまり、教員によるいじめや虐待は生徒間のいじめ以上に悪質と言えるし、また、信用失墜行為に該当することから地方公務員法33条の規定にも反する。
子どもの人格を否定し、尊厳を傷つけ、活動する権利をも奪うパワハラ教師を私は絶対に許すことはできない。

学校というのは非常に閉鎖的な場で、学校内で起きたことは当事者以外には見えにくい。
適当に言い繕っておけばバレないとでも思っているのだろうが、事実がある以上、言い逃れなどできはしない。
彼は完全に子どもを見くびっているようだが、中学生だってバカではないのだ。
あるいは、自分は子どもたちに崇拝されているのでなにをしてもいいのだと病的な勘違いをしているのかもしれないが、子どもたちが逆らえないのをいいことに、指導という名目で不当ないやがらせをするなどということは、決してあってはならないのだ。
そもそも学校というところは教員のための場所ではなく、子どものための場所なのである。

私も教職員として数年間学校に身をおき、いくつかの学校現場を内部から見てきた。
教員にもいろいろいて、全員が人格者ではないことも知っている。
学校教育に夢のような理想を思い描いているわけでもない。
しかし、職業倫理に照らして、いや、それ以前に人間として、やって良いことと悪いことはある。
年度末、私はひそかに決意していた。
これ以上、黙って見ていることはできないと思った。
じっとやり過ごせばあと二年でわが子は中学を卒業する。
しかし、彼はその後もずっと、退職しない限り、今の仕事を続けていくのだ。
おそろしいことだと思った。
なにか重大なことが起きてからでは遅すぎる。
いや、外部の者の目にも見えるようなはっきりした出来事だけでなく、彼に関わった子どもたち一人一人の心にどれほどの影響が出るのかということは、それこそ測り知れないものがある。
闘わなくては。
しかし、彼も保身のためには巧みに立ち回るだろう。
私が怒って学校や教育委員会に怒鳴り込むことは簡単だが、下手に動いて仕損じれば、おそらくその反動は私ではなく子どもに向けられるだろう。
正攻法ではだめだ。
ここは慎重に事を運ぶ必要がある。
なにか方法を考えなければ。

そう思っていた矢先、年度がかわり、問題の教員は他校に異動になった。
私の目の前から諸悪の根源は消え失せた。
しかし、今もほかの場所で、彼は先生と呼ばれている。
表向きの笑顔を振りまき、「いじめはよくないぞ」ともっともらしく嘯く彼を思い浮かべてみる。
いじめはなくならない。
哀しいことだが、そう思う。
文科省がどれほど立派な理想論を掲げ、法や制度が整備されても、彼のような教員がいる限り、また、彼のような教員を容認してしまう環境がある限り、パワハラはなくならない。
そして、そんな腐った教育現場から、いじめを撲滅なんてできるわけない。

今、学校は大きな転機を迎えている。
教員の働き方改革の動きに加え、つい最近もスポーツ庁から部活動のあり方についての指針も示され、様々な面で話題にされることも多い。
そんな時代であるからこそ、学校教育本来の意義を見つめ直し、是非とも教員の資質向上に目を向けていただきたい。
人が人を育てるのである。

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いろんな先生

「伊東先生は、いい先生だった」と、しみじみ次男は言う。
伊東先生は次男の小学校の時の先生で、六年間のうちの三年間、担任をしてくださった。
まじめでとても熱心な先生と定評があり、保護者の間でも人気があったが、
そのあまりに徹底した指導は少々堅苦しくもあり、そんな伊東先生を当時の次男は、「厳しすぎ」「めんどくさい」「つまらない」と、さんざん煙たがっていた。
まぁ、確かに、堅物の先生というのは、小学生にとってはあそびが少なく、自由で楽しい雰囲気に欠けるのだろう。
三度目の受け持ちがわかったときには、私も正直なところ、次男に同情したものだった。

中学に入り、子どもにとって大きく変わることの一つは、多くの先生と同時に関わりを持つことだ。
校長先生や教頭先生から学級担任の先生、学年の先生、各教科担当の先生、部活の顧問の先生、委員会の先生・・・
一口に先生といっても、いろんな個性の先生がいる。
新入生が入学するたび、先生の方も初めて会う子どもたちを把握するために様々な努力をなさると思うが、
子どもの方だっていろいろ戸惑うのだ。
それぞれの考えを持った先生がたのそれぞれのやり方をのみ込み、自分なりに順応していかなくてはならない。
日々起こる新しい出来事の中で、子どもたちはそれぞれの目線で、それぞれの人を「見る」。
思春期の子どもの人を見る目というのは容赦なく鋭く、多感な心は多くのことを感じ取る。

新しい先生たちと出会って一年が経ち、次男の中にもそれぞれの先生を形容する言葉が増えてきた。
先生という名の未知の大人たちを中学生なりに理解し、自分の世界に位置付けたということだ。
いつも温かい言葉かけで応援してくれる先生。
子どものいいところを見つけて、認めてくれる先生。
厳しいことを言うし、頭ごなしに叱られることもあるが、いつもこちらを向いてくれている先生。
あまり頼りにはならないけど、とにかく優しい先生。
問いかけるだけで、答えを教えてくれない先生。
二面性があり、態度がころころ変わる先生。
お気に入りの子どもをひいきする先生。
ちょっと意地の悪い先生。
独自のキャラクターを強く押し出してくるが、どこか憎めない先生。
次男から、先生の話を聞くのはけっこう面白い。
保護者には見えてこない一面も、子どもたちは逃すことなく見ているのだ。
一人一人の先生のいいところも、また、そうでないところも。

人間関係というものについて、特に大人との関係について、子どもは正直だ。
信頼できる人かどうか嗅ぎ分け、尊敬できる先生には従うし、それに値しないと判断した先生には反発する。
次男もこの一年、目まぐるしい日常の中で何人もの教師に接し、その感触を確かめながら過ごしてきた。
先生たちとの関わりの中には良いこともあったし、予想以上の良くないこともあった。
これが中学というところなんだと、最近では子どもなりの割り切った考えに至ったようではある。
その次男が、先日ふいに言ったのだ。
「伊東先生はほんとうにスゴイ先生だった。どんなときも正しい人だった。」
その言葉を聞いたとき、次男がこの一年でどれほど成長したか、私ははっきりと見て取った。
「それを聞いたら、先生、喜ぶね。今度、会いに行ったら?」
やだよ と言いつつも、まんざらでもない様子の次男。
嬉しいのは伊東先生以上に、この母なんだけどね、今はそれを言わないでおこうと思う。

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年の初めの運試し

昨年秋から家族で集めていたものがある。
それは、スターウォーズのチョコエッグである。
チョコエッグというのは、卵の形のチョコの中にカプセルが仕込まれている食玩で、カプセルの中身は動物のフィギュアだったり、ディズニーのキャラクターだったり、その折々でいろんなシリーズがこれまで販売されてきた。
この秋冬は、そのスターウォーズバージョンが映画の公開に先駆けて発売されたのだった。

スーパーやコンビニに行くたびに、家族の銘々がこのチョコエッグを一つ、二つと買いためて、シークレット1種を含む全14種のうち、13種が揃うまでは快調だった。
あと1種、なかなか手に入らなかったのが、C-3PO。
スターウォーズではおなじみのキャラである。
これは絶対に外せない。

稀少な存在のシークレットですら、意外にすんなり入手できた。
それなのに、なぜかわが家はC-3POには縁がなく、
何度買っても出て来てくれない。
そうこうするうちに、このシリーズのチョコエッグはだんだん店頭からなくなり、もう買うこともできなくなっていた。

残念だったね という会話を交わしていたのは先月半ば、映画の新作が封切りされた頃だったろうか。
年が明けて、正月二日の夕方。
食料品の買い出しに出かけた私は、行った先の店で思いがけずこのスターウォーズ版チョコエッグを見つけたのだ。
よし、新しい年の運試し!とばかりに、3個購入。
これで出なかったら、本当にあきらめようと誓う。

家に持ち帰り、三つのチョコエッグをテーブルに並べる。
まず次男が一つを開け、器用にチョコを手で割って食べ始める。
お楽しみはチョコを完食してからである。
小さなチョコのかけらを落とさないように、慎重な面持ちですべて食べ終えると、いよいよカプセルを開ける番である。
緊張が高まる。
カプセルを持った両手の指先に力を入れてひねるようにすると、
中から現れたのはBB-8だった。
BB-8は好きだけど、残念!

次のチャレンジは長男。
こちらも慣れた手つきでチョコを割ると、豪快にすべて口に詰め込む。
もぐもぐしながらカプセルをオープン! 
「あ、オレ、天才かも」とこちらに見せたカプセルの中身は
念願のC-3PO、それだった。
やっと出たー!!
ひとしきり盛り上がる。

それでもうシリーズはコンプリートできたので、
最後の一つはなんだっていいのだが、せっかくだから開けちゃおうというわけで、わたくし自ら開けてみた。
ところが慣れないものでチョコがうまく割れず、次男に手伝ってもらいながらなんとかチョコを食べるという美しい親子愛。
さてそこで、取り出したるカプセルを「えいやっ」と開けてみますれば!
見えてきたのは金色のあたま。
また出た!C-3PO~!!happy02
なんと、あれほど出なかったC-3POが、その日2体も出たのである。

なにやら、今年はひどく幸先のいいわが家である。

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       *ちなみに、前列一番右がシークレット。ルークでした。  

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ピンクちゃん

いつもはパパにべったりのナノコが

私のところに来るのは、

「ピンクちゃん、取って!」

ていうときだけ。

ピンクちゃんはこれ↓

In


寒がりのママとナノコの

唯一分かり合えるところ。

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顔が命ではないけれど

最近ひどく驚いたことに、自分の顔のことがある。
顔と言っても、えー!?私ってこんなにブスだったの?とかっていう話ではない。
さすがに半世紀近く生きてきて、今さらそれはない。
こんなとこにシミが!シワが!っていうのも既に強く自覚していることで、悲しくはあるが今驚くことではない。
では何なのかというと、顔のゆがみである。

先日、免許証の更新のために、証明写真を撮影したときのこと。
スピード写真のブースに入り、指示に従って顔の位置など合わせたら、まず一枚目の撮影。
撮れた画像の確認画面が現れ、OKかやり直しかの選択を求められる。
まぁ、撮りながらも前方のミラーでチェックしていたし、そこそこまぁまぁには撮れていたはず。
しかし、目の前に表示された画像の自分を見て、あれ?と思う。
なんか違う。
どこが違うかとよく見ると、まず左右が逆である。
どうしてそういうことになるのか、理屈を考えると頭の中が混乱してくるのだけれど、とにかく!
事実として、鏡で見る自分と写真の自分は左右が逆なのである。
あぁ、それで違和感を持ったのか とそこで納得してしまいたかったが、
それだけではない何かが私の目に訴えかける。
しばらく自分の画像とにらみ合った私はようやく気付く。
口が曲がっているのだ。

おかしいな。普通にしていたはずなのに。
やり直しのボタンを押してから、私は前方のミラーを注視する。
両方の口角を「い~」と引き上げ、笑った口を作ってみて愕然とした。
左の口角は上がるのに、右の口角が上がらないのだ。
なにこれ?
私、どうしちゃったの!!

順番を待つ人がいないのをいいことに、
カーテンに仕切られた個室の中で、一人、躍起になって表情を作ろうとする私。
初めはまるで耳か鼻を動かそうとしているかのような感覚だったが、
右の頬に神経を集中して動かすうちに動かし方を思い出し、
なんとか左右対称な顔の撮影に成功することができたのだった。

しかし、ことは深刻である。
写真が一回撮れればいいという話ではない。
毎日鏡で見ているはずの自分の顔が、知らないうちに変わっているなんて!
いつからなんだろう。
本当に気づかなかった。
お肌の状態の変化には細心の注意を払っていたのに、口が曲がっているなんて少しも知らなかった。

帰宅してからネットで調べてみたところ、
顔というものは、普段のちょっとした生活習慣で変わってくることがあるらしい。
それは例えば、ものを食べるときに左右のどちらかばかりで嚙む癖であったり、頬杖をつくことであったり、就寝時にいつも同じ側を下にして横向きで寝ることだったり。
さらには、脚を組むことや、片方の足に体重をかけて立つこと、左右どちらか決まった方にいつも荷物を持つことなどによって生じた体のゆがみが顔のゆがみにもつながるんだそうだ。
言われてみれば、私にも思い当ることはいろいろある。

そのことを知って以来、私はゆがみに敏感になった。
立ち方、座り方から食べ方にも気を配るようになった。
寝方だけはどうしても仰向け寝が苦手で、横向きになってしまうが、向きを変えるようには気を付けている。
鏡を見ると必ず口角の動きをチェックし、頬の筋肉のマッサージをしたり、顎の関節を動かしたりもする。
その効果が表れてか、口の左右非対称は改善されてきたと思う。

自分本来の顔を取り戻すことができて安堵したが、
気が付かずにいたら と思うとゾッとする。
もともと人間の顔が左右対称にできていないことは知っているが、
今までそうでなかったものがゆがんでくるというのは 
また別のことであり、恐怖である。
そして、そうした顔のゆがみを放置していると、頭痛や腰痛、肩こり、めまいや不眠、自律神経失調の原因にもなり得るそうで、
これからの人生を健康に過ごしたいのなら決して無視できないことだ。

顔が命とは思っていないが、やはり顔は大事である。

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ドライバーの自覚

先日、運転免許証の更新をした。
こう見えて、私、優良ドライバーである。
でも、実のところ、運転はそれほど得意ではない。
方向感覚もかなり怪しい。
だから、知らない場所へは行かないし、遠出もまずしない。
行くのはちょこっと買い物か、子どもの送迎くらいである。
言わば、市内限定ドライバー。
基本、こわいので運転に関しては慎重そのものだし、違反の匂いには極度に敏感。
自分の限界が分かっているから、それを超えて無理はしない。
自分にできることできないことが分かっているのも、
ある意味、優良ドライバーの条件ではないかと思っている。

純粋にドライブを楽しむなら専ら助手席という、
私と同類の女性は世の中にけっこう多いのではないかと思う。
しかし、今やどこに行っても、巷は車であふれている。
車は老若男女にとっての生活必需品となっている。
昨日も車で買い物に行った私は、スーパーの駐車場に車を停めた。
ロックをかけて車を離れようとしたとき、
すぐ隣の空きスペースに車が一台入ろうとしていた。
運転席の窓から後方を見ながら顔を出したのは70代くらいの女性である。
彼女はけっこうなスピードを上げて車をバックさせていたが、
その様子は、手慣れているというよりむしろ、雑な印象だった。
そして、私がそのとき思わず足を止めて見てしまったのは、
駐車スペース一台分ごとに設置されたロック板の端の制御装置と思われるボックス型のパーツに、車の後輪がすれすれで通ったからである。
もし当たったら、タイヤかホイールに傷がつく。
それでヒヤリとしたのである。
運転しているご本人は、そんなことなどまるで頓着していないようだったが、結果、ぎりぎりのところをタイヤは無事通過した。
とはいえ、車体はかなり斜めである。
切り返すわよね?前に出るとき当たらないかな?
と余計な心配をする私の予想に反して、運転者の女性はそのままエンジンを切り、車を降りた。
たとえ車が5cm曲がっていても気になる私としては、それはもう
信じられないくらいの斜めだけれど、
まぁ、車は一台分の枠の中には収まっている。
よっぽど急いでいたのだろうと思うことにした。

買い物が済んで帰ろうとしたとき、また別の車を見た。
その駐車場内で一か所だけ、壁に沿って縦列に駐車するスペースがある。
縦列駐車は苦手だが、そこしか空いていなかったとき、何度か私も停めたことがある。
やってみると、大きい車でなければ、さほど大変ではなかった。
そこへバックで中途半端に突っ込んだ状態で立ち往生している車が一台。
っていうか、その車の位置からして、後部が壁に接触していそうに見える。
運転しているのは、やはり70代とおぼしき女性。
コンパクトカーと言われる車種である。
彼女は車を降りて状況を確認し、また運転席に戻るというのを何度か繰り返していたが、どうしようとしているのか分からない。
傍目にも壁に寄りすぎている以上、いったん出るしかないと思えるが…
いったん出てからまたやり直すか、その場所に入れるのはあきらめるか。
見ているだけで怖いので、あきらめたほうがよさそうだなぁ…と思っていたら、しばらくしてその車はほかの場所に移っていった。

その年代で今も運転しているのだから、お二人ともドライバーとしての経歴は長いに違いない。
車庫入れだって、これまでに何百回、あるいは何千回もしてきたはずだ。
彼女たちを見ていて背中が寒くなるのは、そこに私自身の20年後の姿を見たように感じたからだ。
高齢になると、どうしても肉体は衰える。
若いときに比べて反応も遅くなるし、注意力や判断力も低下する。
認知症など特別な病気になっていないとしても、
運転に必要な車両感覚が鈍ってくることだってあるんだろう。
あのお二人が特別なのではない。
だれだってそうなるのだ。
決して過信はいけない。

最近になってようやく実家の父も運転をやめた。
父にしてみたら、大きな決断だったはずだ。
私は将来、少し早めにドライバーの肩書きを降りようと思う。
だれに言われなくても、多分自然とそうなると思う。
元気なうちに、車のない生活にも慣れておかなくてはならないとも思っている。

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